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well-being teacher’s café 備忘録

9月26日の日曜日にオンラインによる、well-being teacher’s café が行われました。これは、齋藤みずほさんと、永島宏子さんが、

現場で苦労している学校の先生たちに、もっと幸せを意識して欲しい、幸せになって欲しいという、先生応援プロジェクトとでもいう趣旨で行われているオンラインカフェであります。みずほさんから、幸せに関するいくつかの知見が話され、それをもとに参加者が、「モット気軽に、モット日常的に」をモットーに(笑)、やわらかい雰囲気の中で幸せについて自由に対話していきます。今回私は2回目の参加でしたが、参加するたび、いろいろな発見があり、そして、幸せ感が高まっていくように思います。

今回気づいたことを旧ブログから転載して備忘録としてまとめておきたいと思います。


金継ぎで思ったこと

金継ぎとは、欠けてしまった器を、漆や金を使って修復する日本の伝統的技法です。そこには、本物であればこそ壊れる、そして壊れたものを修復することで魂が宿り、新たな価値が生み出される、そんな精神性が垣間見えます。このことから敷衍して、器を人に置き換え次のように考えてみましょう。

 

「人は不完全な存在である」→「そのことを自ら受け入れよう」→「不完全な存在だからこそ、心を痛めることもあり、苦しみや悲しみに出会うこともあるはずさ」→「そういった感情や出来事も大切に扱おう」→「それによって、悲しみは優しさに、苦しさは勇気に変えていくことができるかも」→「そこから逃げてしまうと、その負の感情はむしろ強化されちゃう」

 

こんなことなのかなと思います。

 

私は、金継ぎの話を聞きながら、なぜか「学級崩壊」について思いを巡らしていました。小学校の段階で学級崩壊が起きるとそれは大変です。まさに大切に扱ってきた器が粉々に壊れてしまったようなものかもしれません。そこで金継ぎなのです。

 

「学級」とは崩壊を内包する存在です。なぜなら「学級」とは日々変化する生き物であり、割れないプラスチックのお皿ではなく

本物の陶器だからです。だからこそ教師は、崩壊しないよう懸命に学級経営に努めます。しかし、どんなに細心の注意を払っていても崩壊することもあり得ます。

 

であるなら、崩壊に直面した後にどのように「金継ぎ」するかを前もって考えておくことが大切ではないかと思ったのです。

このようなことを言うと、学級崩壊を経験されている先生からは、部外者のお気楽な気休めと叱られるかもしれません。

そんな生易しいものではないとも思われるでしょう。それはとてもよくわかります。私の子どもも学級崩壊にあい、私も学校に何度か足を運び、その惨状を目にするたびに抱いたのは絶望感ばかりでした。

 

しかし、「崩壊」することを恐れ、それを「撲滅」することだけを考えることは、実際にそれが起こってしまったときに、そのつらさや絶望感はむしろ増すばかりではないかとも思うのです。もし、「崩壊」しそうになったらどうするかと同時に、それでも崩壊してしまったとき、どうやって金継ぎして生まれ変われるかを、前もって「子どもたちとともに」考えておくことがあってもいいのかなとも思いました。

 

壊れた器を復活させる金継ぎを、人だけでなく、「学級」にも考え及ばせることができるのではないか。

そんなことを思ったのでした。

「感謝」「笑顔」から始まる幸せ

感謝をする人は、そうでない人より喜びや熱心さといったプラスの感情が高く、妬みや苦しみから自分を守る力も強いという研究結果があるとのことです。そのときに、私の頭に思い浮かんだことは、「笑顔と幸せにおけるニワトリ・卵論」でした(そんな論なんかないけど 笑)。

 

つまりニワトリ論で言えば、人が笑顔になるのは、その人が何らかの「幸せの状態にいる」からであって、笑顔の状態をつくることによって、自動的に幸せが導かれるというものではないという考えですね。

一方、卵論は、「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」というアランの言葉でまとめられますね。

 

そういえば以前、TEDに登壇したイギリスのロン・ガットマンという学者が、一度の笑顔は、チョコバー2000個分と同等の刺激を脳に与えると話していたことがありました。

ついでにもう一つ言うと、チャップリンの「モダンタイムス」の挿入歌「スマイル」の「どんな辛いことがあっても、ただ笑ってさえいれば生きていける」という歌詞が泣けますね。

 

どうやら「卵論」が優勢ですね。

 

ということで、「感謝と幸せ」も同様に、感謝が先行することで、幸せがついてくると捉えたいですね。

まあ、そんな理屈をこねなくても、自分の胸に聞いてみると確かにそうだなあと思います。一日3つの感謝を記してみる、寝る前に今日一日に感謝する、などという経験は人生を変えてくれると思います。

 

さて、そんな「感謝」をめぐる話から、ちょっと飛躍するようにも思われるかもしれませんが、私が関心を持ったのは、「思いと言葉」なんです。これも「感謝と幸せ」「笑顔と幸せ」と同様、「言葉」というカタチによって、「思い」が伝わるのか、それとも「思い」があるからこそ「言葉」として表現されるのか、というまあ、ちょっと屁理屈的ではありますが、そんなことを思ったのでした。

 

例えば、偏差値至上主義的な言い方で生徒を追い込む教師と、一方、子どもの主体性を考えた話し方をする教師がいたとします。

一見、両者は全く異なる価値観を有しているように感じます。しかし、もっと先を探っていくと、そこに「生徒が幸せになることを応援したい」という共通の根っ子が発見できるかもしれません。

 

子育てでも、子どもに過干渉的になり小言ばかり言う親もいますが、やはりそれは子どもに対する愛情の発露とも言えるはずです。私は常々、言葉とは思想であり、心映えであると思っていたので、学校改革や授業改善のためには、その前提として「思い」にフォーカスすること、つまり教師のマインドセットとか、教員文化にメスを入れることを主張していました。

ですが、今回のカフェを経験して、その逆方向に考えていくこともアリなんだなあと思いました。

 

つまり、思いの伝え方、言葉の使い方、そういったスキルこそが教師に不足していたのではないかと感じたのです。考えてみれば、教師は、その職業についたとたん「先生」と呼ばれ、そういう属性をもって生きることを強いられるわけです。そんな中で、結局、自分のパーソナリティを過信したり、過去の生徒時代に教わった先生の教師像をなぞるとかといったやり方で子どもと接してしまうことが多いわけです。

 

私は高校時代、校長先生の朝礼の長い話が始まると「えー」を何回言うかを数えていました。「今回は250回で最高記録を更新したな」とか。言葉の使い方講座、人の話をよく聴く講座、活舌をよくするトレーニング、などカタチから入っていく教師力養成講座も必要であるなあと思ったのです。

 

<追記>

そんな話を参加者の皆さんと共有させていただく中で、みずほさんから、ゲイリー・チャップマンの「5つの愛の言語」の紹介がありました。私は初めて聞いたのですが、愛を表現する言語とは「肉体的なコンタクト」「肯定する言葉」「充実した時間」「ギフトする」「サービス行為」なのだそうです。

自分が愛する人は誰であり、その人に対する愛の表現はどれを中心に行っているのか、どれが不足しているのかなどについて、皆で楽しく語り合ったのでした。

学びとは「欲望への欲望」

参加者のT先生が、「自分は喜びや嬉しさを大げさに表現するタイプではなく、それよりも人が喜ぶ姿を見ることが自分の喜びになる」ということをおっしゃいました。私もそのような傾向があるので、T先生に共感しました。

ですが、同時に、最近ある方から言われたあることを思い出しました。

 

それはこんな話です。

 

「しもまっちは、人を喜ばせることが好きなんだけど、しもまっち自身が大喜びしたり本気で嬉しそうになっている姿を人に見せることが、同じようにそれを見る人にとっての喜びでもあるんだよ。だから、気を使わないでもっとはしゃいだり、ドヤ顔で自分自慢をしたりした方がいいよ」

 

そこで、そのことをTさんに話しました。するとTさんはこんなことを話されました。

 

「そういえば、先日授業でマヤ文明についての話になったとき、自分の専門であり、大好きで得意な分野なので、つい夢中になって熱く語ってしまいました。そうしたら生徒が、先生カッコいい💛というカンジでとても喜んでくれたことを思い出しました」

 

私は、Tさんの話を聞いて、学びの本質のようなものを感じました。私が指導主事時代に「教師と生徒の関係」という文脈でよく持ち出していたのが、高橋勝氏(横浜国立大教授)の言葉です。少し長くなりますが以下に引用します。

 

 

 

 

 

フランスの哲学者ジラールは、『暴力と聖なるもの』の中で、欲望とは、主体Aの内部で自然発生的に生じるのではなく、主体Aが惹きつけられる身近な他者B(例えば、男子にとっての父親、生徒にとっての教師、自己にとっての競争相手)が対象Cを欲望するが故に、対象Cを欲するようになるという「隠された三項関係」の構造を明らかにしている。

 ジラールのこの「欲望のミメーシス(模倣)」論は生徒の学びの深層を理解する上でも実に貴重なヒントを与えてくれる。

 通常は教師が提示する知識を学ぶと考えられているが、実際はそう単純なものではない。学びとは、宅配便を受け取るのとは

まるで異なるからだ。それは、むしろ身近な他者との共犯関係において開かれたり、閉じられたりしていくものだからである。

 

ジラールに従えば、生徒にとって教師とは、知識への挑発者として目に映るのであって、知識の所有者、例えば学者と同じではない。子どもの目の前にいる教師は、知への欲望にかられていて、それに夢中になり、その欲望のオーラを有形無形の形で生徒に見せ付ける存在である。子どもは、教師の所有する知識にではなく、彼/彼女が抱く欲望とその言動に滲み出る情熱に惹かれるのである。教師の知識に惹かれるのではなく、教師の「知への欲望」に惹かれるのである。

 

<中略>

 

生徒は教師の「あこがれにあこがれる」と同時に、知への欲望に欠けた教師の惰性的な授業やその振る舞いをも無意識のうちに模倣し内面化する。(以下略)

 

ここにあげた「欲望への欲望」の話は、「「おじさん」的思考」(内田樹)の中の「教育とエロス」という項にも書かれていて、

そこではジラールではなくヘーゲルの言葉を通してまとめられています。こちらもめっぽう面白いのですが、もうかなり長くなっちゃうのでここらで終わりにしたいと思います。