· 

well-being cafe on Clubhouse

私は今年の5月にようやくスマホを持ちました。スマホデビューとほぼ同時に「Clubhouse」デビューもしました!Clubhouseとはスマホ専用の音声型SNSのことで、目的に応じて「ルーム」を立ち上げ、そこに招待した人と「声」だけでトークセッションを行うというものです。キャリアクエストの齋藤みずほさんが「ウェルビーイングカフェwithしもまっち&みずほっち」というルームを立ち上げて、毎週金曜7時から幸せなおしゃべりを楽しんでおります。全く打合せはなく、みずほさんが、場の雰囲気を大切にしながらリードしていくというスタイルで、ラジオ世代だった私には何となく懐かしさみたいなものも感じております。

今回のブログでは、その1回目の内容について思い出しながら振り返ってみようと思います。

農民芸術概論綱要と幸せについて

私は鞍掛山によく登ります。実はこの日の前日も登っておりました。鞍掛山は岩手の誇る詩人、宮沢賢治がこよなく愛した山として知られています。そんなこともあって、私は山に登りながら、賢治の「農民芸術概論綱要」について考えていました。

「農民芸術概論綱要」には、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名な一節があります。

それについて私が思うところをお話ししたいと思います。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というと、何となく、組織や、世界が幸せになることが、個人が幸せになることに先行するものだと捉えがちです。つまり、組織そのものや一部の優れた者が潤うことが前提としてあって、それが「下々の個」の幸せにトリクルダウンされていくというイメージですね。でもそれは、ある種新自由主義的な発想で、へたをすると優生思想的な考えにもつながりかねないのではないかと懸念します。

私の解釈はこれと真逆で、「個人が幸福であることによって、世界やコミュニティのある部分が幸せになっていく」という「個人の幸福」を前提にして考えたいと思うのです。

 

この説明のために少し数学的な話をします。「世界は~」の構文を命題として捉えたとき、これは、「Aでない⇒Bでない」という否定文の条件から否定文の条件につなぐ形になっています。これは、「A⇒B」つまり、「世界がぜんたい幸福ならば個人が幸福になる」に対して「裏」の命題といわれます。このような構文は分かりにくいですよね。

例えば、「ある数が3ならば、それを2乗すると9になる」といわれれば、すぐ納得できますが、これを「2乗して9にならないならば、その数は3ではない」といわれると、同じことを言っているのに頭がこんがらがります。

 

さて、命題「A⇒B」に対して、その「逆」である「B⇒A」も、「裏」である「Aでない⇒Bでない」も、もとの命題と同じものではありません。逆は真ならず、裏もまた真ならずです。説明は省きますが、「A⇒B」と同じことを表す命題は「逆の裏」つまり

「Bでない⇒Aでない」となります。これを命題A⇒Bの「対偶」といいます。

すると、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」に対して、その対偶である、「個人が幸福であるならば、世界のあるところが幸福になる」が同値の命題になります。

 

つまり、個人の幸せが前提としてあって、それがコミュニティ全体の幸せにつながっていくということ。幸せは伝染するという言葉がありますが、幸せとはそういうアメーバ的な伝搬力をもっているというのが私のイメージです。

因みに賢治は、農民が生きて働くということそれ自体を「芸術」(四次元空間での芸術)と呼んでいます。私は「農民芸術概論綱要」は、すべての人々が持つ芸術的感性と、知識や技術を仲間とともに深め合うことによって、人々の自立を促し、コミュニティ全体の幸せを追求するということが書かれているように思っています。それは、世界が幸せになることを座して待つのではなく、

それぞれが、幸せを求める主体的な生き方を行おうという力強いメッセージでもあると思います。

であるなら、組織やコミュニティという「世界」は、個人が幸せになることにフォーカスする営みを行う必要があって、それがひいては生産性の向上といった組織自身の「幸せ」にもつながるということではないかと私は感じています。

個人について

私は40年近くにわたり学校という組織に所属してきました。そしてこの4月から組織を離れて、ささやかですが「個人事業主」として活動しているところです。リタイアしていく人に対して「組織にいることで人間関係を保つことができたのに、組織から離れることで人間関係が無くなり孤独になるのでは」と同情する人がいます。でも私の考えはそれとは違います。組織の中の人間関係には、肩書とか、役割とか、人脈とか、損得勘定などによって支えられた、ある種アーティフィッシャルな一面もあるように思います。もちろん、本質的な出会いや友情や愛情が生まれることもあるのはもちろんですが。

人は組織や集団、コミュニティに属すことで、「安定」を得ることと引き換えに、「束縛」も引き受けます。そしてしばしば、組織という閉じた世界での料簡や常識、あるいは肩書、役職という「立場」が、「本当に大切な事」を見誤らせるバイアスとして作用することもあります。

 

私は数年前に花巻北高校を退職し、校長という肩書がはずれたとき、自分は組織に守られて生きてきたことをあらためて実感しました。そして、そんな肩書や組織という属性が無くなった時こそ、地球に立つ「一人の個」としての在り方が問われるのだと気づきました。そしてそこに、進歩や変革を産みだすエネルギーが潜んでいるのではないかと感じました。私は「組織」に対する「個人」とは、組織や他人に依存しない一匹狼という捉えではなく、組織の呪縛から解放された存在でありつつも、多くの組織や他者とのネットワークを持つ人と考えています。つまり、特定のコミュニティに依拠するのではなく、多様な他社・他者と相互依存の関係を保って活動を起こしていくということです。

 

そこで私は、「個人」を、孤独な人、つまり「孤人」ではなく、「Co人」と定義したいと思っています。CoとはCollaboration , Cooperation ,Co-creation, Communicationなどの意味を持っています。

集団から個別化、組織から個人といわれる時代の転換の中で、未来社会においては、「組織」を内包した「個人」が求められていくのではないでしょうか。それは、旧来の組織やコミュニティが持つ理不尽や、不合理な部分を解体しつつ、しかしそのコミュニティが持つ値打ちを評価し、それを自分の中に取り込み、組織を己の中に再構築することではないかと思います。

あなたは何色?

みずほさんからこのような問いかけがありました。そのようなことは全然考えたことがありませんでした。最近私の中でのブームは「同期共振」なのですが、きっと、自分の色というものは、その時々で、周囲の色と重なりあったり混ざり合って変化しているのかもしれないと思います。それって自分色が無いということなのか(自爆)。

例えば幸せの4因子「なんとかなる」「ありがとう」「ありのまま」「やってみよう」も色で例えて、その混ざり方の塩梅で、様々な幸せを、色で表現するのも面白いように思います。

 

ところで、「彩雲」といわれるものがあります。太陽光が、雲に含まれる水滴によって回折し、その度合いが光の波長によって異なるために、雲が緑や赤に美しく彩られる現象です。それは、めでたいことの起こる前ぶれとも言われております。彩雲の美しさの真髄は、赤や緑や紫など個々の色彩にあるのではなく、それらが重なり合う中で生み出される「調和の美」ではないかと思います。自分が出す波長(色)が他の波長と共振して美しい調和の色を生み出すこと、あるいはコミュニティ全体が、そこにいる個々の人たちの発する波どうしのシンクロによって美しい彩雲を創りだすこと、などということを何となく考えました。


1回目のクラブハウスセッションで話したこと考えたことをまとめてみました。毎週金曜7時からのゆるりとした対話の時間を皆さんも楽しんでみませんか。