· 

3.11にあたって思うこと

はじめに

今年も3.11を迎えました。私はこの日になると、過去に、自分が震災についてどんなことを思い、語ってきたかを振り返っています。それは、2011年の3.11だけではなく、昨年は何を感じていたか、一昨年、3年前、5年前はどうだったか、という毎年の3.11についてです。なぜこのような振り返りを行うかというと、その年月の経過の中で、もし、3.11への思いが自分の中で減衰、風化していると感じたならば、それをもう一度喚起するきっかけになると考えるからです。

 

私は昨年から、ブログを「あなたと夜と数学と」から「イケオジ通信」にシフトしました。そのうち旧ブログの方はデリートするかもしれないので、3.11の思いについて書いたことを新しいブログの方に引き継いでいこうかなと思っています。

というわけで、今日は、3.11への思いについて、過去のブログなどから拾っていくつかをこちらにまとめていこうと思います。

小さな願い

3.11になると聴きたくなる大好きな歌があります。「小さな願い」(I Say a Little Prayer)という曲です。1967年にR&B歌手のディオンヌ・ワーウィックが歌いスマッシュヒットしたナンバー。その後アレサフランクリンがカバーしてそちらの方が有名になりました。そのほかいろいろな歌手に歌い継がれているので、聴いたことがある人も多いのではないでしょうか。おススメはナタリー・コールとホイットニー・ヒューストンのライブデュオ。これ鳥肌ものです。そして、何と南沙織も歌っているんですよ~。

 

さて、この曲は心弾むメロディですが、歌詞をよく聞くとハッピーな内容ではありません。私には、すでに亡くなってしまった自分の恋人への思いを切々と歌い綴る内容のように思えるのです。そして、この曲を聴くたびに、私の中では、3.11で亡くなった方々への思いが重なるのです。

 

目覚めた瞬間、髪をとかすとき、どの服を着ようか迷っているとき、バスに乗っているとき、コーヒーブレイクのとき、いつでも小さな祈りをあなたに捧げる

 

ポップでさわやかなバカラックサウンドに乗って淡々と歌い上げていく。だからこそ、むしろ切なさが倍増します。

 

永遠に そして ずっと 貴方は居続ける この胸の中に

 

ああ。涙なしには聴けません。

 

一昨年、EDIFというグループで英語を勉強していたときに、そのメンバーに向けて公開した動画です。

初めてギターで弾き語りしてみました。

こちらが本物。耳直しをどうぞ。

東日本大震災を境にした変化(3.11/2018)

今私たちの周りでは、「社会の急激な変化」が繰り返し語られています。その変化は、産業革命や太平洋戦争の前後などと比べられない程大きいという人もいます。しかし、それは、〇年〇月〇日をもって一斉にチェンジ、というわけではありません。

例えば、MS-DOS(知る人ぞ知る)からWINDOWSへの変化や、ポケベル(知る人ぞ知る)からスマホ文化の移行にしても、消費税などのように、ある時期をもって一瞬にしてがらりと変わったというわけではないのです。

 

私たちは、いわば時代というスペクトラム(連続体)上にいます。数学的な言葉を使って述べると、そこは常態を維持しようという力と、変化に応じようという力がせめぎ合うベクトル場と言えるかもしれません。そして、その経過の中で生じたグラデーションを俯瞰した時、大きな変化だったと振り返ったり、あるいは、傍からは様式や習慣が劇的に変わって見えても、本質はそう変わっていなかったと感じたりするのでしょう。これは、人体が、環境の変化に対応するために細胞をターンオーバーさせながら、自分を維持し続けていく活動(ホメオスタシス)に似ているようにも思います。

 

もちろん、ある段階で、それまでの蓄積が閾値を越えて、相転移が起こるというカタストロフィのような現象もあるかもしれません。例えば2045年のシンギュラリティはしばしば語られているところであります。でも、シンギュラリティの話を持ち出す前に、実は私たちは、既にそのような経験を積んでいるのです。

 

それは2011年3月11日の東日本大震災津波なのです。

 

この震災によって、あらゆることが大きく変化しました。その変化は、流通や産業などの社会の仕組みに留まらず、思想や価値観、ライフスタイルなど、人々の「生き方」にも大きな影響を及ぼしたように思います。もちろんそれは、環境によって変わることを余儀なくされたという後ろ向きの一面もあるでしょう。でも私は、東日本大震災という激しい衝撃が、我々の心の奥底に眠っていた本質、本当の真理のようなものを浮き彫りさせたのではないかとも思っています。

だからこそ今、私たちの周りでは「幸福に生きること」「多様な価値を認めあうこと」などといった、理念や理想を、照れずに正面から語る気運が生まれつつあるのではないでしょうか。それは恐らく、「自分」や「自分の隣人」、「地域コミュニティ」あるいは「世界」にとって「本当に大切なものは何か」を問い、そして、その「本当に大切なものを、本当に大切なことにする」営みについて語り合う文化であると思うのです。

 

では、そのような中で、学校教育はどのように変わってきたでしょうか。あるいは今、どのように変わろうとしているのでしょうか。そして、私たちのような「教育屋」が行う復興とは何でしょう。それは、単に学習定着率をあげること、進学実績を高めること、などということを越えたところにあると私は思います。そういった文脈の中でアクティブラーニングと、そのムーブメントを捉える必要があると私は思っています。

 

「「想像ラジオ」を讃える読書感想文」を讃える(1.15/2014)

「想像ラジオ」や「共震」とか、最近は震災に触れる文芸作品が増えていて、最早一ジャンルを形成しているという感もある。

実は恥ずかしいことに、私は、「想像ラジオ」は、震災について書かれたものとは知らず、著者が「いとうせいこう」であることと、帯の煽りにつられて買ってしまった。なので、最初に延々と続くDJアークの語りに、辟易して、途中で本を投げ出そうとさえ思った。そこを踏ん張って読み進めていくうちに、ようやく繋がって、感動して読み終えることができたのだが。

 

さて。12月4日の岩手日報に、第46回岩手読書感想文コンクールの優秀作品が紹介されていた。その中で、高校2年生の三船恭太郎君(盛岡一高)の「想像ラジオ」の読書感想文が秀逸である。私の浅薄な読みとは比べ物にならない深い理解と、豊かな表現力に、感動を覚え、尊敬の念さえ抱いた。この感想文は、全文が公開されている公的情報なので、ここで、一部を引用させてもらう。私が特に共感したところは以下の部分である

 

「内陸部に住む私は生活の不自由から程なく解消され、被災県という括りの中にいて、罪悪感に似た感情も抱いた。募金やささやかなボランティアでお茶を濁し、死者の気持ちを考えることをやめた。」

そして、「震災で起きた心の震えを止めたかった。復興の兆しの感じられる耳に心地よいニュースを見て、手っ取り早く安心感を持ちたかった。」

 

多分多くの人が、このような気持ちで日々を送っていたのではないだろうか。私は彼の感想文を読んで考えた。我々は、何をなすべきだろうか。いとうせいこう氏も、多分、三船君のいうような状態の中で、きっと、自分の使命として、この作品を書き上げたのだろう。それは、プロの書き手としてできる、一つの復興支援かもしれない。では、今、私を含め、教師ができること、しなければならぬ復興支援とは何か。それは、人権の尊重を教えることであり、平和と民主主義、助け合いの精神の文化を創造するような人づくりをすることであると思う。我々が、教育屋の端くれであるならば、その立ち位置から、つまり教育の側からの復興支援を行うことが使命であると思う。

宮古・田老訪問(1.12/2014)

昨日は、宮古市の崎山小学校で行われたシンポジウム「被災地からの発信 復興の現状と今後に向けて」に参加した。コーディネーターの新妻先生(岩手大教授)から、このシンポジウムを受けて、被災地の現状などを、それぞれが発信して欲しいとの提言があった。今回は、宮古市議会議員の北村さんと、田老漁業協同組合の畠山さんの話から印象に残ったことを記したいと思う。

 

○ 避難所の生活における防災計画には、女性の視点が必要。(本の読み聞かせや授乳スペース、団らん・・・)

 

○ 復興はハード面だけでなく、人口減少が進む中、若者を留めるような、街づくりの視点が大切

 

○ 田老では、958隻の漁船のうち881隻が流出、621台のワカメ昆布の施設が全滅、鮭の孵化場などの施設も全滅した。漁業はもう終わりだと思った。しかし、漁業を復興しないと地域も復興しないという思いで取り組んできた。

 

○ ワカメ・昆布の養殖からスタートした。なぜなら、それ自体が事業であることだけでなく、ワカメ・昆布は、加工や販売など漁業者以外の雇用も生み出すからである。

 

○ せっかく作っても、原発の風評被害で売れない。特に関西圏ではそれが顕著。我々が、日本の南の県を正しく理解していないように、関西や九州の人たちも、岩手も福島も東北としてひとくくりに見ているのではないか。また、田老のアワビの殆どが中国に輸出しているが、それも風評で売れなくなった。

 

○ 嬉しい話として、被災をきっかけに、漁業に着業してくれる若い人が出てきたことがある。話題として、16歳の3人組が、ワカメ昆布の養殖に取り組んでいる。これは、宮古市が若者の着業者に月10万円を給付するという施策を打ち出したから。国や県の制度は、複雑でやりにくい。それに対して、宮古市のこの施策は抜本的な英断でとてもありがたい。

 

私がこのシンポジウムで思ったことは、次のようなことだ。

 

● 復興は「輪」の考えが大切であるということ。そして、それによって地域の文化を作るということ。

 

● 局所的な活動から、輪をつくり、つなげていくこと。それは、被災地の内部にいる人間の力で生み出されるべきであること。

 

● 結局は自社の利潤によって動く復興事業、一時の満足を与えるだけの享楽施設、行う側が自己満足するだけのボランティア、それらは、その地域の文化を発展させないということ。

 

そんなことを考えながら、今、自分にできることを模索していこうと思う。

震災から半年が経過して~We are not afraid today~(8.31/2011)

震災から半年経とうとしている。「時が解決する」という言葉がある。今なお「汲めども尽きぬ」瓦礫の山を前にしている人々にとって、それはあまりに気休めというものである。しかし、恐らく何年も時が経てば、いずれは収束に向かうのだろう。では、被災地の人の心の傷はどうだろう。時とともに雲散霧消していくのだろうか。妻も子も失い、そしてその亡骸も未だに見つからないまま、それでも懸命に被災地の生徒達のために教育活動を行っている教師がいる。私は彼に何も語りかけることはできない。胸が張り裂ける思いを抱きながら悲しむことしかできない。

 

母も家も失い、他県から親戚を頼って岩手の高校に転校した生徒がいた。教師たちがお金を出し、住居や生活の支援をした。迎える生徒達もその子を励まし、部活動など共に活動する中で、打ち解けあい仲間となった。しかし、三カ月もしないうちに、家庭の状況が変化し、別の地に向かうことになった。その子が学校を立ち去るとき、生徒も教師も皆泣いた。それは「別れの涙」ではない。なぜ、その子は何もしていないのに、こんなつらい思いをして生きていかなければならないのか。彼女の運命に対してのやるせなさからの涙なのである。

 

このような幾多の凄惨な状況を前に、時が解決するなどとは決して言えぬ。その一方、時とともに着実にノー天気になっている最近の周囲の状況に、私は今とても滅入っている。それは、被災地支援という名目で一発稼ごうというテレビのバラエティやタレントなどの売名行為だったり、政治家が被災地で瓦礫をバックにピース写真を撮って走り去っていく視察だったり。そういえば、誰かの「この津波を利用して日本人の積年たまった我欲の垢を洗い落とす必要がある。これは天罰だね」という発言に始まり、京都の送り火問題や、東海テレビの「怪しいお米セシウムさん」そして、ネット上での「東北の人間はこっちに来るな」「何も持ち込むな」「(甲子園で負けたチームは)早く帰って瓦礫を片付けてろ」などという書込みが頻発されている状況を見たとき、私は、東北人にとって忘れられぬ過去のある言葉を想起せざるを得ない。それは、あるビール業者の社長による「仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」というあの熊襲発言である。

 

つまり「セシウムさん事件」も「送り火事件」も、そして「ネットの書き込み」も、すべて東北に対する差別と蔑視の発露であると思えるのだ。差別意識を秘めたまま、スローガンだけの復興支援や慈善活動に対し、私はあの天才ガロアのセリフを引用しようと思う。「慈善だって?ぼくはそんな言葉は大嫌いだ!貧乏人や不幸な人間を金持ちの善良な衝動によりすがらせ、金持ちに対する貧乏人の闘争意識を殺ぎとるのが慈善だ。慈善は国家の神聖な義務を、個人のムラ気に置き換えるものだ。斧を持ってこなけりゃ割れないようなパン、また二日間も水に浸しておかないと食えないようなパンを食っている家族は、パリにはいく千あるか知れないよ。そんな人々は、土間の部屋にわらを敷いて住んでいるんだ。部屋の空気は臭く、じめじめしていて、どんな上天気でもうす暗いんだ。君はそんな人々に、慈善と愛をもたらそうという。めっそうもない!彼らは憎しみを持たなきゃならないんだ。憎悪は彼らの権利だ。彼らの窮状を当り前だと思っているやつらを滅ぼすのが、彼らの権利なんだ」(「ガロアの生涯」Leopold Infeld 訳 市井三郎)

 

ガロアのとんがった、ある意味鬱屈したメンタリティを引き合いに出すのはどうかとも思ったが「でくのぼう」と呼ばれても静かに笑っているほどに東北人は人が良すぎるのだ。そんな現状ではあるが、いや、だからこそ、私は、AMIの多くの方々からの支援や、被災地の教育復興のための様々な行動に接し、希望を持つことができた。この震災後の今、人権を尊重し、平和と民主主義、助け合いの精神の文化を創造することが教育の使命である。つまりそれは教育の側からの復興支援である。

 

しかし、その崇高な使命を果たすことは、授業をノルマとして成立させるための「術」を模索し奔走する教師や、知の探究活動を時間の浪費と考え、大量のアサインメントによって、直前のテスト対策だけに没頭するような、思想性の無い薄っぺらな教師にできるものではない。今教師に必要なのは、世界の情勢や、子どもの教育環境を読み解く力を持ち行動すること、利害を離れて、美しいものを美しいと判断できる能力を持つこと、数学を本当に楽しいと思っていて、その楽しさを生徒に伝える力を持つこと、子どもと向き合い、高い志を持ち、授業の質を高める姿勢を持つこと、などではないかと思う。

 

そういう意味で、AMIのこれまで築いてきた理念と実践の集積、そして優れた実践家達によるネットワーク。これらは今後大きな力となるのだと私は感じている。瓦礫撤去やインフラ整備により街が復興していくのに伴って、私たちは「思い」を風化させていってはならない。子どもに豊かな教育と、心のケアを行うこと。そして、差別や蔑視に毅然と立ち向かい周囲の多くの人たちを巻き込んで、スクラムを組んで乗り越えていく、そんな力と勇気を与える教育を行うこと。私達が教育屋のはしくれであるならば、そんな心の復興のための教育に立ち上がらなければならない。我々の出番なのだ。 We shall overcome someday !

震災から五十日経って(4.30/2011)

3月11日 14 時 46 分 

進路指導部会の会計監査のため八戸高校と八戸東高校をまわってちょうど勤務校の八戸西高に戻ったときそれは起こった。とんでもない揺れがいつまでも続き、校舎が崩れ落ちるのではないかという思いがよぎる。心臓が鼓動する。「大丈夫ですかー」「すぐに終わりますよー」机に潜りこんでいる同僚たちに声をかけながらなんとか歯を食いしばって平静を保とうとした。

 

この三月をもって退職する理科の実習教諭の先生が、前日夜八時頃まで学校に残って、翌日の、最後となる実験の準備を入念にしていたのを私は見ていた。地震はその最後の実験中に起こった。生物実験室では無残にも室内の蛍光灯がすべて落下した。生徒をグランドに避難させ、家庭と連絡を取らせながら 19 時までには全員を家庭に無事帰すことができた。翌日私は保護者への進路講演会を行う予定になっていたが中止し、生徒の登校も禁止した。水道を除いてライフラインがすべて止まり、西高は新幹線八戸駅の最寄りということで、移動中の800 人もの人たちの避難所(待機場所)となる。二日間、彼らの世話を行った。後期試験受験のため移動中の学生も多く、学習スペース確保に生徒会館を開放。乳幼児を持つ家族などには、合宿所を手配したが、すべての希望に応えることはもちろんできない。校舎の前で車の衝突事故があり、車から運転者を救出し、救急車に乗せていくこともあった。私は進路部長なので、その合間を縫って後期試験に出かけた生徒の安否確認と、後期試験の日程の確認などに奔走した。自宅へは連絡が取れなかった。きっとあの阪神淡路大震災を上回る被害になるだろうと覚悟した。

 

12 日の夜に停電が復旧した。灯りがついたとき、人生でこんなに嬉しいことがあるだろうかとさえ思った。夜、ようやく岩手の自宅と連絡がつく。13 日朝、八戸の自宅のパソコンで後期の大学受験日程の確認をして出勤。午後 2 時まで学校で業務。その後年休を取って実家の盛岡に水や食料などの支援物資を持っていき、その後自宅の紫波に帰る。岩手は沿岸中心に大変なことになっていることが徐々に明らかになっていく。更に原発の問題も発生し不安はますますつのる。14 日、朝自宅から娘を職場に車で送りながら八戸に向かう。高速が使えないため 4 時間かけて出勤。この日の午後、仙台に住む息子と初めて連絡が取れる。ライフラインすべて止まり幽閉されていることが判明。4 日間、水も無くお菓子だけで生活しているらしい。それを聞いて、大急ぎでガソリンを入れ(岩手と違って1時間待ちで 20 リットル買える)仙台に走る。高速は使えないが、そのかわり宮城県では信号がほぼ機能していないので夜はノンストップ。八戸を16 時に出発し、午前0時前には仙台に着く。帰りのガソリンがぎりぎり間に合い、紫波の自宅に戻ることができた。13 日から 2 日で 750kmもの運転だったが、休憩無しなのに眠くなることは一瞬もなかった。それだけ緊張してアドレナリンが出ていたのだろう。15 日は年休をとった。家族4人がいることが夢のようだった。

 

生きているだけで 

岩手の状況が心配で沿岸方面の人にメールや電話などをしたが全く連絡がつかなかった。そんな時、K先生が大丈夫という話を人づてに聞いたときは心の底からほっとした。高田高校では校舎の三階まで津波が押し寄せたという。何ということだ。20 日あたりから、メールが来るようになった。気仙沼で看護学校に通う卒業生からようやくメールの返信があった。何とか生きて自宅に戻ったとのこと。

 

「気仙沼は悲惨です。津波も見ましたし街が火の海になっているのも見ました」 

 

でも、メールアドレスを見た私は携帯を握りしめて思わず「よっしゃあ」と泣き叫んでいた。生きているだけで嬉しかった。因みに、気仙沼の病院では、看護師が、自分の家族の安否も確認できないまま、不休で被災者の看護にあたっているというニュースがあった。食料はまず患者へ配るため、ろくに食べることができないという状況である。何という尊い人たちなのか。最近、進路指導に携わる中で、安直な「とりあえず看護師希望」が増えている。そんな生徒たちにいいたい。「覚悟」はあるのかと。杜陵サークルの安否はK先生経由で知ることができたが、釜石のSさんは確認できなかった。何度もメールや電話をしたが連絡がつかない。ネット上で釜石の避難場所の名簿を何度も探すが見つからない。ネット上に死亡者のリストがあったが、それを見るのが怖い。勇気を振り絞って恐る恐るちらっと見る。心が潰れそうになる。そこに名前がないことを知りとりあえずホッとする。そんな中だった。

 

「学校から海を眺めると、壊れた防波堤が見ることができます。夜は 40 分くらいかけて徒歩で家に帰っていますが、相変わらず電気も通ってないので、サークル通信も作れないでいます。けれど、高田のK先生の方がもっと大変なのだと思います。」

 

Sさんからのメールだ。よかった。この喜びをあちこちの人にふれまわりたくなる。サークル関係では大船渡のH夫妻の無事も確認。メール復旧や、支援活動が始まっていく中で、安否が確認できるようになった。私が心配していた沿岸地方の多くの知り合いの先生方の無事もほぼ確認できた。24 日離任式があり、岩手に戻れることになった。岩手は人事凍結という状況にあり、私の人事は前日午後に決定したらしい。離任式直後、初任の宮古北高時代にお世話になっていた田老町の方の家にお見舞いに行く。前日連絡が取れ一家全員無事であることが確認できたのだ。八戸で 20 リットルのガソリンを積んで家族で田老町に。その方の家の前まで津波が来たらしい。目の前の川(神田川という)から毎日死体が上がる、今日も三体の死体があがったとのこと。壮絶で凄惨な現状を前にもはや涙も出ないという。家族は、むしろ不明のままより、死体が出てくるとホッとするというあまりにも悲しい状況がそこにある。そこからほど近くにある、死体安置所にもなっている宮古北高校に支援物資を届ける。周囲の人たちに避難を叫び、お年寄りをおんぶしたりして多くの人の命を救いながら、自らは津波の犠牲になってしまった当時の教え子の話を悲しい気持ちで聞いた。

 

石割桜のように 

「この津波を利用して日本人の積年たまった我欲の垢を洗い落とす必要がある。これは天罰だね」などという呆れる言葉も耳にしたが、心が暖まるような出来事もあった。弘前大、東北大、岩手大、東北福祉大、消防士などに合格していた西高の卒業生達が、入学式が遅くなったということで、八戸の港の瓦礫撤去のボランティアに自主的に携わっていたことだ。関係者が、西高の卒業生がとても多いのに驚いていたということを我々は後日新聞で知る。日頃から「進路指導は自分を磨くこと」といっていた言葉がしみとおったような気がして嬉しかった。世界中からも支援の輪が広がった。例えばモンゴルの貧困地区に住む子供たちが、生活保護費の一カ月分を支援した話や、コロンビアのトイレもない小学校に通う子供たちが、日本の子供たちに絵を描いて送り、もし、自分たちのところに避難してきたら、あたたかい食事をご馳走したいといっている話には心が打たれた。最近は、日本文学研究科のドナルドキーンが「この震災で決意した」といって日本人と共に、日本人のためにできることをしたいと、日本に帰化し永住することを決めたという記事があった。ちなみにドナルドキーンは 88 歳である。

 

映画「コンタクト」の中で、エリー博士は宇宙から信号をキャッチする。そのノイズの回数が 100までの素数回になっていることに気づき、これは宇宙の知的生命体からの信号であると主張する。なぜ知的生命体なら英語などの言語でメッセージを送らないのか、という質問にエリーは「数学は宇宙の共通言語なのです(Math. is only true universal language)」という。この話は数学の時間私がよく引用する言葉だ。しかし、このような世界からの支援のニュースを聞くにつけ、世界の共通言語は「仁」であり「絆」であり「愛」であったという思いを強くした。

 

私は現在岩手県庁に勤めている。県庁の前に「石割桜」がある。ちょうど今満開時である。特に今年は、この石割桜の写真を撮りに来る人が多いようである。きっと、石割桜に人々は、逆境や苦しみに負けないで花を咲かせる強い意志をみているのではないか

と思う。離任式の際、生徒に「私たちはかけがえのない多くのものを失った。でもまだ失われていない未来のために希望持って頑張ろう」と言った。石割桜のように、冬の時期であっても春を思う強い気持ちを失わず、未来に美しい花を咲かせよう。