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参加型授業の一つの理論武装

このブログでは、旧ブログ「あなたと夜と数学と」に書いた記事からの再掲も行うことにしています。今日は、2015年2月14日に書いた「参加型授業の一つの理論武装」をまとめておきたいと思います。当時勤務していた盛岡三高の参加型授業について教育センターで発表を行う際の資料として書いたものですが、発表後ブログにも掲載しました。今から6年も前の古い記事ではありますが、私のブログの中で最も反響が大きかったもので、これをきっかけに全国の多くの実践家との出会いがあり今に至っていると思っております。


参加型授業の一つの理論武装(2015年2月14日)

 先日、ある新聞社から本校に電話取材があった。それは、本校の参加型授業が、模試や大学合格者などの結果に顕著に結びついているかというお尋ねだった。聞けば、その記者は、アクティブラーニングの特集を構想しているようで、文部科学省に、成果をあげている学校を訪ねて、本校が紹介されたとのこと。

 私は、特にそういったことはない旨を話すと、とてもがっかりしていた。どうやら、アクティブラーニングを行った結果としてセンター試験や大学入試のための力がついた、というストーリーを求めているようなのだ。

 私は、このようなタイプの質問をする人には次のようなことを言っている。

 

①参加型授業は模試の結果を伸ばすために行っているのではない。

②結果がよくても悪くても、それが参加型授業の影響によるものなのか測定できない。

③模試の結果ではなく、生徒の学ぶ意欲や 学び続けようとする姿勢は向上している。

 

 このようなことを言ってもなかなか引き下がってくれない。困るのは、「結果が出ているかどうかわからない」というと、「結果が出ないんじゃあやっても意味ないですね」といわれること。「結果が出ているかどうかわからない」=「結果が出ていない」、従って「意味はない」というロジックは、少なくとも論理的な推論ではない。そもそも参加型授業やアクティブラーニングは、結果よりも、やることにこそ意味があるのだが。

 これからも、そういった質問が続くと思われるので、理論武装として、少し考えをまとめておこうと思う。

ラーニングピラミッドの功罪

 近年、高校においてもアクティブラーニングが全国的な潮流となっているが、その多くは「ラーニングピラミッド」とともに提示されている。つまり、「学習定着率の向上」のためのスペシャルなメッソドという文脈でアクティブラーニングが捉えられている傾向が感じられる。

 しかし、私は、参加型授業も、アクティブラーニングも、学習効率を高め、ひいては、受験学力(つまり模試の偏差値)をつけるという文脈で提起されているものではないと考える。最近、教育行政の方々からさえ、「盛岡三高の参加型授業がいかに結果に結びつくかがポイントですね」ということをよく言われる。ここでいう「結果」が、「学力の向上」を示し、更にその「学力」が、知識や技能の発達だけではなく、活用力や、問題解決力、学び続ける力ということも含め、現行の学校教育法で提起されている包括的な学力ということであれば、参加型授業やアクティブラーニングは、結果を出していると言えよう。ところが、多くの人が言うところの「結果」や「学力」とは、いわゆる模試の偏差値であり、センター試験の得点であり、そして大学進学実績を指している。

 グローバル化、知識基盤社会、高度接続社会の到来とともに、学力が法的にも定義され、社会全体が授業の転換の必要性を唱えている時に、このような、「授業改善→学習定着率の向上→偏差値や進路実績の向上」という立ち位置でのみアクティブラーニングや参加型授業が語られることに、私は疑問を抱く。それは、「高い偏差値→良い大学→良い進路先→幸せな人生」という、とっくに崩壊している枠組みをバックボーンに旧態依然とした進路指導を行うことと同根の価値観を感じるからである。

もっと理想を語ろう

 数値目標達成という名の下、授業というインプットが、数値の変容というアウトプットにどう結びつくかを追い求めることは結局、他と比較したり、他者を追い抜くことばかり考えていることではないだろうか。教師はもっと教育の理想を語るべきではないか、そしてその理想を具現化すべく教師自身が、行動を変えるべきではないか、と私は思う。

 つまり、模試の偏差値に帰することばかり考えるのではなく、社会に出ても学び続ける力、学習者の態度を変える力、学び方を学ぶ、ということが、もっと焦点化される必要があると私は思う。

 こんなことを言うと「経済なくして倫理を語る寝言」と一蹴されるのだろうか。もちろん、参加型授業は、偏差値で表されるような学力に資するものでなければならない。しかし、それは必要十分ではない。それだけではない成果を期待して授業を構成していくのが教師の仕事でもある。

 このように、参加型授業やアクティブラーニングが、生徒に確かな学力を育て、教師自身の授業観や学習観を変えるものであるとすれば、それは1つの学校だけでなく、社会全体が総がかりで進められなければならない。

 そして、生徒や保護者にも、そのような未来型の学びの値打ちをしっかり伝えることが、我々の使命である。

授業は学習環境の一つに過ぎない

 このようなことを言うと、授業改善を一生懸命取り組んでいる、教育センターや県教委・教育事務所などの指導主事から怒られそうだが、学校で行われる授業とは、学習者が学びを行い、学力を身につけ、自己実現していく過程における環境の一つに過ぎないと私は考える。生徒の学力は、教師の教えや、学校の授業システムによってのみ培われるものではない。そして、当然、「学び」や「気づき」は、授業において、教師の掌の上で一斉に起きるものであるわけがない。

 しかし、もし、授業が、学び方を学ぶ、生徒の意欲を育てる、協働での問題解決を行う経験を養うという場に変わっていくならば、きっと、その環境の1つに過ぎなかった授業というプロセスが、生徒の確かな学力を身につけるための、大きなファクタになるのではないか。

行動主義と構成主義

 今述べたことを、もう少し具体的に述べておきたい。「生徒参加型の授業は、授業の進度を遅くし、時にクラスの秩序を乱し、学習効率を悪くするのではないか。」という問いにも随分出会う。それに応じて、私はしばしば、反転授業やジグソー法など、学習定着率を高めるためのアクティブな手法や、教科書を早く進められるような実践例を紹介してはきたものの、考えてみると、それは少し方向が違っていたのではないかと思っている。

 なぜなら、そのような問いは、行動主義的学習観で構成主義的学習を語ろうとしているという認識のずれが感じられるからである。行動主義、あるいは、実証主義に立つ学習観とは、「刺激-反応」という、「授業・教授」を直接的に学習者の「テストの得点」というアウトカムに結びつけようとする考え方である。

 行動主義的アプローチでは、教師は「正解」を保持する権威者であり、生徒は「白紙の状態」の中で、教師からの知識を蓄積するという受動的な存在、または効率的に知識や技能を注ぎ込まれる対象として扱われる。ここでの学ぶ過程とは、授業者からの問い、学習者の応答、そして授業者の生徒へのフィードバックという、ほぼ3つの活動だけで進められる。

 行動主義型志向教師のメンタリティとして、「自分が教え込まないことは教師の怠慢」「生徒主体の学習は教師不要論を生む」という、教師としての使命感や真面目さを見ることもできるが、時に、「生徒の学びは自分が教えたこと以上でも以下でもない」「すべての学びは教師の掌の上で起こす」というある種傲慢な考え方も垣間見える。

 これに対し、構成主義では、学習とは、学習者自身が知識を構成する過程そのものであるとし、その中で、教師は学習者を支援する重要な役割を担うが、学習者が主体的に世界と関わるためのリソースの一つと見なされる。そして、教師は学習者の行動ではなく態度の変容を促すとされる。

 先日、本校でグローバル人材育成の講演会が行われたが、講師のA先生(青年海外協力隊の活動で、マラウィで理数科教員を努め、気象予報士としても活躍されている)から、高校時代、ある教師との出会いが、大学で生物学を専攻するきっかけになったと、次のような話をされた。

 「その生物の先生から、受験に出る生物の知識を教わったからではなく、面白い科学の世界を見せてくれたこと、興味をかきたててくれたことで、生物学を勉強してみたいと思うようになった。その先生のお蔭で知識がついたからではなく、もっと続けてやってみたいという気持ちが芽生えたことが、大学に進む動機となり、大学で研究し続ける原動力になった。学校という場で得たものは、受験の知識ではなく、人生を楽しむ力と、世界を広げる力。それは自分のその先を大きくしていこうというという力でもあった」

 この力強い言葉から感じるのは、教育とは教師という存在も含めて「環境」であり、環境によって人間は学んでいくということである。そして、学習とは、学習者自身が、自己の内部の欠乏(他者との相対的な関係も含め)や欲求を自覚することによって、目標が設定され、考え方や態度が変化し、そこで初めて行動に結びつくものではないかということである。

 学習者が目標をもたない状態で、教師が一方的に知識や技能を注入する「授業」は、それがたとえ、効率的であったり、量を担保するものであったり、繰り返し的に行われるものであったとしても(むしろそうであればあるほど)、成果は手に入らない。学習とは、ことさら刺激に対する反応を強制するものではないからである。であるならば、授業の成果をテストの点数だけに求めるのではなく、子ども・生徒に内発的な動機づけを与え、彼らに「自らを拡張・更新するチャンスを与える」ことに目を向けるべきではないか。

 私は、行動主義型学習観は否定され、今や社会構成主義の学習観に立つべきだということを述べようとは思わない。しかし、知識は「ググる」時代といわれる現在、知識の注入一辺倒の授業では立ちいかない現状を踏まえ、知識を構成し、活用に向かわせたり、他者と協働することで啓発を促すような学びを模索することが教師には求められるのではないか。なぜなら、特に高校現場では、観念的な教育観を嫌い、「名物予備校講師のように語り倒す授業」を標榜する教師や、高校時代までの経験と、自分の感性やパーソナリティになぜか自信満々の、フィロソフィの無い教師の増産が、「TeachingからLearning」へのパラダイム変換を阻むと思うからである。