数学Ⅱの定積分を指導するイメージ

以前、北海道のある高校での研修で、数学Ⅱの積分を指導する際のイメージは何かと問われたことがあります。その方の考えは、数Ⅱの微積分は高々3次関数程度だから、とりあえず意味に拘泥せず、操作だけ教えればよいのではということでした。確かに微積のエッセンスは数学Ⅲでしっかり学ぶことにして、数Ⅱでは、基本的なグラフ描画や、図形の面積を求めるためのオペレーションを身につけるだけでよいという彼の考えもわかります。でも、だったらパソコンがあればそれで十分だよなあとも思いました。そこで、私がその研修で話したのは次の3つでした。

 

1 微積分学の基本定理のエッセンス

2 分割の極限から面積を求めるアイデア

3 他の領域にも及ぶ積分の3つの重要性質(加法性・線形性・単調性)

 

下写真はその時板書したものを、自校に戻り、初任の先生に説明しながらホワイトボードにまとめ直したものです。

 

因みに、研修会でこのような話をしたところ、質問者から「これを全部生徒に説明するのか。例えば微積分学の基本定理の話は生徒に話してもわからないだけ」と反論されました。もちろん、これをこの通り生徒に説明するということではないわけで。でも、教師がこのような見識を持って授業に向かう方が、単に操作の方法を形式的に伝えさえすればよいと思って行う授業より深みのあるものになるのではないかとお話しました。

 

私たちは車の免許を取るために自動車学校に通います。そこで学ぶのは運転技術のノウハウや交通規則の基本です。ありていに言うと、私たちが教官に求めるのは「車が運転できて、試験に合格すること」であり、それ以上でも以下でもありません。仮に教官が、車の構造の原理や、F1レースのテクニックや、自動車の歴史などを熱く語ってもそれは余計なお世話というものでしょう。

 

では教育者と呼ばれる学校の教師もそのような存在なのでしょうか。教師が「教える」学びとは、期末考査で赤点にならないこと、入学試験で合格するための対策をすることに過ぎないのでしょうか。だったら、教えたことを再現する能力を競う期末考査なんてマッチポンプはやめればいいのでは、大学入試に数学を使わない生徒は学ぶ必要はないのでは、などの疑問も浮かびます。

 

学校での学びとは、教師の言動に触発されて、それぞれの生徒が自ら学びたいことを自らの方法で学びだすことではないでしょうか。つまり教師は知の所有者ではなく、生徒を知の世界に向かわせる挑発者という存在のように思うのです。

 

「教師の説明したこと」そのものをすべての生徒が一様に獲得したかどうかを授業の成否として評価していくことは、学校が自動車学校化することのように思います。そして、AIの進展によって車の運転が自動化され、自動車学校がいらなくなるように、効率よく知識を送り込むことだけに熱心な教師もAIにとってかわられる日が来るのかもしれません。