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「選択理論心理学」のイメージ

2018年の9月23日に、花巻市のギャラリーBunというところで、「ハッピーマネジメント」というワークショップを行いました。

これは、実際には、この年の8月に予定されていた「未来の学びフェス」というイベントで行うワークショップが突然の台風によって流れてしまったため、そのリベンジをしようと、その大会の席上で私がいきなり提案したものでした。


私はそのワークショップの前夜、説明のために用いるスライドを見直していました。私のスライドでは、日本におけるマネジメントの歴史を語る際、欠かせない人物であるエドワード・デミング博士(W.E.Deming)の知見を取り上げていました。

因みにこれまで教育現場では目標達成型学校経営という文脈で「PDCAサイクル」という言葉が随分と語られてきましたが、このPDCAサイクルとはデミングらが提唱したもので、デミング・ホイール (Deming Wheel)とも呼ばれています。

私はデミング氏を中心に、ドラッカー(P.F.Drucker)、センゲ(P.M.Senge)、ラルー(F.Laloux)、セリグマン(M. P. Seligman)といった人たちの見識を、ハッピーマネジメントを提唱するための一つの理論的根拠にしていました。

そして、それらの考えを学校教育に照らしながら、いかにハッピーなマネジメントにしていくかについて思いを巡らせていたのですが、そうしているうちに、私はアメリカの精神科医であるグラッサー(William Glasser)の提唱する選択理論心理学に辿りつきました。

ハッピーマネジメントはグラッサー抜きに語れないのではないか。そんな気づきが私の中に起こったのです。私は大急ぎで、グラッサーの言うところの「クオリティスクールの精神」「上質について」などについて追加スライドを作りました。

 

とはいえ、選択理論心理学について全く素人である私が、一夜漬けで考えたものなので全く自信がありません。そして、私のことなので、きっと大きな勘違いをしている可能性も大です。そこで、ワークショップの当日(しかも1時間前!)、この日のもう一人の講師としてお呼びしていた、日本選択理論心理士である齋藤みずほさんにご指導を仰ぎました。ありがたいことに、みずほさんは私の考えを評価していただき、いくつかのアドバイスをしてくださいました。

でも、やはり一知半解な状況で皆さんに話す勇気がなく、ワークショップでは結局、グラッサーの選択理論の話はしませんでした。というわけで、前置きが長くなったのですが、私が思う「選択理論心理学」の周辺について、ブログに敢えて記してみようと思いました。最初にお断りしておきますが、ここで述べることは、2018年の10月の段階で、旧ブログ「あなたと夜と数学と」に書いた内容であり、その当時に、あくまで自分の中にある「選択」あるいは「選択理論」についてのイメージをまとめたものです。ですので、きっと多くの誤解や勘違いがあるかと思います。ですが、これまで進めてきたハッピーマネジメントをより充実させるためであれば、敢えて私の無知蒙昧をさらけ出してみるのも意味があるのではないか、あるいは、まずは備忘録として現段階の思いを記しておくことに価値があるかもしれない、などと思ってペンを執ったという次第であります。


「選択」という言葉でイメージされること

私はキャリア教育の授業や講演の中で、「人生とは〇〇である」という問いを立てることがあります。〇〇の中に何を入れるかを

考えてもらうわけです。これまで、生徒たちから出てきたのは、「愛」「登山」「七転び八起き」「学び」「変化していくこと」「考え続けること」「問いを持つこと」「もがくこと」等々でした。ちなみに皆さんはどんな言葉を入れますか?

 

ここで、私が用意している答えの一つが「選択」です。これは、以前「ハリーポッターと秘密の部屋」を読んだときに出会った言葉です。ダンブルドア校長は、ハリーにこんな言葉を語りかけます。

「自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力ではなく、どのような選択をするかということなんじゃよ」(It is our choices that show what we truly are, far more than our abilities.)

また、アメリカの実業家で、アマゾンの創設者として有名なジェフ・ベゾス(Jeffrey Preston Bezos)は、2010年にプリンストン大学の卒業式のスピーチでこんなことを話しています。

「私たちは私たちの選択でできている」(We are what we choose)、つまり、「あなたが何を選ぶか、あなたが下す決断が『あなた』をつくっていくのです」

もう一つ思い出したのは、最近ピーター・M・センゲが、ネルソン・マンデラについて語った講演の翻訳を読んだときに出会った言葉です。彼は繰り返し「選択」という言葉を用いています。例えば次のようなものです。

「復讐よりも大切なものがあるという『選択』、怒りよりも根源的なものがあるという『選択』。もし、マンデラの選択がなければ、新しい国家を築き維持していくことはできなかった。これは、非常に深い選択だったのです。」

 

もちろん私は、ダンブルドア校長やベゾス氏やマンデラ氏の立派な言葉にとても心が動かされます。ですが、私なんかがキャリア教育などの場面で、このような言葉を引用すると、「人生とは自分らしさを追求すること」「選択するのは自分なのだ。だから自分の行動に責任を持ちなさい。」などと、ヘタすると、ある種、教訓的で説教臭い方向になだれ込んでしまいそうです。

 

「自己実現」とは、「自分らしさの追求」に基づく将来選択であるとし、その選択をするのは自分なのだ、と強いられる生徒たちは、結果として「夢追い型」志向へ追い立てられていくというのが、かつてのキャリア教育の問題点としてよく指摘されているところです。

私は、ここで取り上げた「選択」の話と、「選択理論」における「選択」とは少し趣が異なると感じています。実は私が「選択理論」をイメージしたのは、あるマンガの一コマです。ではそれについて記していこうと思います。

 

「ピアノの森」にみる選択理論

「ピアノの森」(一色まこと)の第5巻のストーリーの話です。以下、少し長くなりますが、ネタばれに注意しつつあらすじを書きますね。

 

小学校5年生のカイ(一ノ瀬海)はピアノコンクールに初めて出場します。そこで、丸山誉子に出会います。誉子は、コンクールに雨宮修平(カイの友達・優勝候補)が出ていることにショックを受け、取り乱します。「雨宮修平のせいで、私が地区大会で優勝して全国大会に行く目標が叶わなくなった・・」と泣き言を言います。

カイはそんな誉子に、「雨宮のせいにするな。ホントはみんなの前で弾くのが怖いだけだろ。だったらこんなところでうろうろしていないで、とっととケツまくって帰ってしまえ」と突き放します。

すると、誉子は、これまでの自分がいろんなものを犠牲にして、どれだけ一生懸命やってきたか、そして、もしここで帰ってしまったら、それが全部ムダになる、と泣き崩れながら話しだします。

言い過ぎてしまったと思ったカイは、「そんなに頑張ったんなら、その全部でちゃんと弾け」と励ましますが、誉子は首を横に振ります。そして自分の弱みをカイに告白します。

「絶対に失敗したくない、先生に叱られたくない、パパやママをがっかりさせたくない・・どうか失敗しませんように、と念じて弾くのに・・いつもめちゃくちゃになってしまうの。」誉子は極度のあがり症だったのです。

「きっと自信がないからなんだわ。だから今回はレッスンを倍やって、データも集めて、実力ならトップなんだ!と言い聞かせてここまで来たのに・・まさか雨宮修平が出場するなんて・・」

カイは雨宮の存在にとらわれている誉子にこんな言葉をかけます。

「雨宮なんか大物の敵でもなんでもない。敵はおまえだ、丸山誉子。しかもでかい。」

そして「敵は、『目の前でピアノを弾く』・・それだけに集中できない自分自身なんだ」と続けたとき、カイは、自分の先生である阿字野が自分にいつも語りかけていた「敵はモーツァルトなんかじゃない・・自分自身なんだ」という言葉が腑に落ちます。

そんなカイの言葉を聞いても、誉子の絶望は変わりませんでした。

「だったらもうカンペキだめじゃない。性格は急に変えられないもの」

そこですかさずカイはこう言います。「性格なんてどうせ変わらないよ。性格じゃなくて気持ちを変えるんだ」「そんなこと、今言われても時間もないのに」と泣きべそをかく誉子に、カイは「な!お前俺を信じる?一つだけ方法を知っているんだ」カイは阿字野に教わった方法を誉子に教えます。

それは、目を閉じて、自分が一番落ち着く場所にいることを空想するというものです。誉子は、それは「トイレ」だと言って、

近くのトイレに駆け込みます。彼女は辛いとき、いつも自宅のトイレに籠って、犬のウェンディを抱いて心を整えていたのでした。誉子は、ウェンディの代わりにカイをトイレに連れ込み、目を閉じて彼の頭を抱え、髪の毛を優しくなでなでしながら自分を取り戻していきます。

誉子は、自分の前に登場した雨宮の完璧な演奏を聴いても、もう狼狽えることはありませんでした。彼女は自分の出番前にカイとこんな会話をしてステージに向かいます。

誉子:「雨宮修平のピアノ聞いたでしょ。完璧だったね」

カイ:「うん!でもカンケーねーよ。誉子は誉子の一番のピアノを弾けばいいんだ。敵は雨宮じゃなくて・・」

誉子:「わかってるわよウェンディ。敵はあたしの中にいるあたし自身。や、やってみる。誉子の一番のピアノ」

そして誉子の演奏は・・。

ネタバレになるので続きはどうぞコミックで。

 

こんな素敵なストーリーを解説するのは野暮の骨頂ではありますが、私が感じたことを以下に記したいと思います。一つ目は、最初の誉子の感情です。

彼女は、雨宮との比較、両親やピアノの先生の視線といった外的な存在や行為によって、自分の感情を高ぶらせたり悩んだりしています。では、もし雨宮の存在がなくなれば、彼女の悩みは一気に解消されるのでしょうか。私は、雨宮がいなくなって、たとえその場の気持ちは収まったとしても、根本的な解決にはならないと考えます。なぜなら、彼女の中にある、「自分は相手にコントロールされる存在であり、また自分は人をコントロールする(できる)存在である」、というメンタリティが温存されたままである限り、また同じような場面で同じような心理状態になることが容易に推測できるからです。

 

そもそも、雨宮の存在や行為を、他者である彼女がコントロールすることは不可能ですね。そんな誉子に対し、カイは「敵は相手ではなく、自分の中にこそある」と話します。ここが一つのポイントですね。人は外側からの刺激によってコントロールされるという、行動主義的立場(「外的コントロール」)ではなく、人の動機付けは自分の内側にあり、自らが選んで行動するという「内的コントロール」の立場に立つことによって人間関係を良好に保とうとするのが選択理論心理学の考え方だと私は解釈します。

グラッサー氏は「私は自分の行動を変えることが出来るが、人を変えることはできない。他者に対して出来ることは、情報を与えることだけである。」そして、「他者と自分とを『比較する』ことは外的コントロールの習慣の一つである」と述べています。

 

二つ目のポイントは、誉子がカイの言葉に耳を傾けつつも、「だったらもうカンペキだめじゃない。性格は急に変えられないもの」と嘆き、それに対しカイが「性格なんてどうせ変わらないよ。性格じゃなくて気持ちを変えるんだ」と話すくだりです。

選択理論では、人間の行動を「行為、思考、感情、生理反応」の4つに分類し、それらを「全行動」と呼んでいます。

その中で、感情や生理反応を変えることは難しく、直接変えることのできるものは行為と思考であるとしています。そして、行為と思考に焦点をあてることで、感情や生理反応も変化し、その結果、人としての欲求(選択理論では「生存」「愛と所属」「力」「自由」「楽しみ」の5つを基本的欲求という)が充たされるように人間関係の改善を図っていくということが選択理論の応用の一つではないかと私は思います。

カイが誉子に出した提案は、感情を変えるために、まず「思考」を変えること。そのために「自分が一番落ち着く場所にいることを空想する」(マインドフルネスですね)という「行為」を選択することでした。

演奏を終え見事予選を突破した誉子は、真摯に彼女の面倒をみている丸山家のばあやの白石からこのような言葉をかけられます。

「あがり症を克服なさった今・・誉子お嬢さまに怖いものなどございません!雨宮修平ごとき小童・・本選で思い切りのしてやりましょう」

誉子はこう返します。「彼はもう敵ではないわ。」「なんと誉子さま!そこまで自信をおつけに・・」と驚く白石に誉子は笑いながら言います。「あはは・・違うわよ。誉子の敵は誉子なの。それを人間のウェンディに教えてもらったの」誉子はカイの支援によって感情が整い、自分に自信を持つとともに、心に余裕ができ、周囲への気配りや感謝の気持ちも抱くようになっていきます。

そしてカイのピアノに恋をするのですよね~以上大変長くなりましたが、ピアノの森にみる選択理論についての話しでした。

 

少女ファイト

 

マンガといえばもう一つ。「少女ファイト」(日本橋ヨヲ子)に名言がありました。

 

「どうにもならない相手の気持ちはあきらめて、なんとかできる自分の気持ちを変えてみませんか」

 

という言葉です。マンガ本はとっくに処分してしまったので、どんな文脈で出てきたか忘れてしまいましたが、思いをよせる人に引きずられてしまっている大石練に対して、友人の小田切学がかけた言葉。だったかな。

私はこれを、思いを寄せていても叶わぬ恋なのだからあきらめなさい、という気休め的で後ろ向きの言葉とは思いません。

恋愛も含め、人間関係が壊れるのは、外部の刺激ではなく、自分のマイナスの解釈に基づく感情と行動です。そして自分は他人の気持ちをコントロールすることはできません。ならば、「なぜ私を振り向いてくれないの」とか、「こんなに私が尽くしているのに」などと自分(や相手)を追い込むのではなく、「相手に見返りを求めず笑顔でさわやかに」とか「もうちょっと距離を置いて自己犠牲的になることはやめよう」といった方向にシフトチェンジすることで自分にも相手にも良い影響が及ぼされるのではないか、この言葉にはそんな思いが込められているように思います。

そして、語りかけた小田切の大石に対する深い友情も垣間見られます。

「どうにもならない相手の気持ちはあきらめて、なんとかできる自分の気持ちを変えてみませんか」いやあこれって、選択理論だよなあ(笑)というわけで、マンガに見る選択理論についてまとめてみました。

 

リーダーシップ像と選択理論

 

次に組織のマネージャーの資質、リーダーシップ像と選択理論との関わりについて記しておきたいと思います。

一般的に教師や親が考えているリーダーシップ像とはどのようなものでしょう。例えばそれは「人の上に立つ能力」と言えるかもしれません。周囲の相談にのり、人を導く。適切な指示を出しチームや全体をまとめる。成果を上げるために、重要な判断を下し、人を動かす。等々。

学校現場で調査書や要録に「リーダーシップがある」と記述されるのは上記のような子どもたちです。ですが、更に言うと、「臆せず前に踏み出す」「元気で積極的である」のようなタイプのような子も往々にしてリーダー性があると記述されるのではないかと思います。すると、ここで私は、学校といういわば「閉じた世界」の中で、教師や周囲につねに「監視される存在」でもある子どもたちの「リーダー性」が生み落とすネガティブな面も想像することができます。

「リーダーシップ」という言葉から「ネガティブ連想ゲーム」をやってみましょう。

「一致団結」→「全員協力」→「人任せ」→「頼りきり」→「ヒエラルキー」→「シンパ」→「反対意見封殺」→「対立」

少し穿ちすぎと言われるかもしれませんね。

しかし、現在は、世界の価値やモラルが、「均質と効率性」から「差異と創造性」へ、「一斉労働とピラミッド型組織」から、「協調によるフラットなプロジェクト的結合」へと推移していると言われています。また学校教育においても、効率性重視、行動主義型パラダイム、知識の量がモノをいう、偏差値による価値のランク付け、競争主義、夢逆算型による成功モデルの標榜、などといった「産業主義型パラダイム」から、高度な複合的知識、多様な人々と協創・共生する個性、創造的知性・社会的知性、学習者主体の学習パラダイム、テクノロジー・ネットコミュニティの活用、などといった方向に価値が転換しています。

だとすれば、そのような中にあって求められる「リーダー像」は、従来より異なってくるのではないかと私は思います。

例えば、あまり人前に出るタイプではなく、これまでリーダーの素質がないと言われてきた人物であっても、良好な人間関係を広げ、新しい価値を創造するキーパーソンになっていく可能性も高いのではないかと思います。

 

 

ここで、現在随所で語られている新しいタイプのリーダーシップについて以下に少しまとめておきたいと思います。

●サーバントリーダーシップ

傾聴・共感・癒しなどを大切にし、先見力や奉仕の心を持って、人々の成長、コミュニティづくりに関与していく。

(ロバート・K・グリンリーフ)

●シェアードリーダーシップ

特定の一人がリーダー格になるのではなく、各自がそれぞれの役目と責任を負い、その能力を発揮できるようリーダーをわかちあう。(ガールスカウトの理念)

●Eリーダーシップ

デジタルとビジネスについての知識や経験をもとに発揮されるリーダーシップ。ネットワーク上で人を繋げ、様々な戦略を立て仕掛けを行う。

●セキュアベース・リーダーシップ

フォロワーが心から信頼し、安心感を与える存在であるとともに、高い目標に向かって背中を押し、能力を引き出してくれる存在。(ジョージ・コーリーザー他)

●オーセンティックリーダーシップ

「ありのまま」「自分らしさ」に目を向け、自分なりの価値観を原動力として発揮される倫理観をともなったリーダーシップ

(ウィリアム・W・ジョージ)

 

2016年に行ったハッピーマネジメントのワークショップでは、このような知見を参考に、私は、新しいリーダーシップ像(ハピネスリーダーシップ)を次のようにまとめてみました。

 

〇他者の良さに気づく嗅覚が鋭く、他者をエンパワーする行動力がある

〇俺についてこい型のリーダーではなく、自ら下支えして周囲を支援する

〇未来先取りの視点と、社会を変革しようとする使命感に溢れ、そこから明確なビジョンを示し、人を繋ぎ信頼の輪を強くする。

〇管理、上意下達という支配型の手法は用いず、相手を思いやるホスピタリティが行動の基本である。

〇常にアンテナが高く、他職種、異ジャンルとの共創によって新しい価値を生みだそうとしている。

〇SNS・ICTをヒューマンアプローチの手段として使いこなす。

 

私は、ワークショップの前日に上記のようなことをスライドにまとめながら、ネット上でデミングのマネジメントについて調べていました。するとそこで、選択理論の創始者であるグラッサーの教育理念に辿りついたのでした。

グラッサーは、現在の教育システムでは、Bの成績をとる生徒と、Aの成績をとる生徒との違いは、ほんの僅かであり、それは試験の5分前に忘れるか、試験の5分後に忘れるかであると述べています。

そして、ひたすら暗記を強いるような学習を、強制学習(スクーリング)と呼び、真の教育(エデュケーション)とは、知識の取得ではなく、知識を使うことであると主張しています。

そんなグラッサーは、デミングの企業経営哲学と共鳴しながら、学校にかかわるすべての人が「欲求」充足できる「上質」な方法や対応の仕方をマネジメントするという、選択理論を基盤にした教育システムの改善を行ってきたということがわかりました。

因みに、グラッサーのいう「上質」(クオリティ)のキーワードは「暖かい人間関係」「強制のないこと」「自己評価」「そのときの最善であるもの」「常に改善可能なもの」「役立つもの」「気分のよいもの」というものです。

そのような「真の教育」を目指すグラッサーのクオリティ・スクールの理念は次のようにまとめられています。

 

 

 

 


ここで述べられている「ボスマネジメント」とは外的コントロールを用いたマネジメントであり、「リードマネジメント」とは

内的コントロール(選択理論)を用いたマネジメントとのことです。ここでCrawfordのまとめを引用します。


先ほど、「リーダーシップ」という言葉から、ネガティブ連想ゲームをやってみましたが、従来のリーダーに内在する「ボス性」を意識していたのだということに気づかされます。すると、更に上の文脈を踏まえると、「駆り立てる」「権威への依存」「責める」「恨みを生み出す」「思考停止」なども加わってくるかもしれません。

私は、「ハッピーマネジメントWS」の最後に、「マネジメント持続可能第一基本定理」(笑)というものを提示しました。

それは、「本当に大切なことを、本当に大切なことにする」というものです。

これに付随して、

 

■本当に大切なこととは何かを皆で共有する

■本当に大切なことは「あなた」ではなく「あなた」を含めた「世界」を幸せにする

■本当に大切なことは、時空を越えてつながりだす

■本当に大切なことは神棚に飾って眺めるものではない

■本当に大切なことは、他の領域と垣根を超えて 共有し合う中で価値が高まる

■本当に大切なことは、校訓や建学の精神の中に潜んでいる

 

という言葉も添えました。「本当に大切なこと」とは何であるか。それはグラッサーのいう「上質」にあたるのかもしれないと私は思いました。その「上質」は個々それぞれ異なっているでしょう。また時が経てば、あるいは他者との対話の中で変化していくこともあるでしょう。そのようなそれぞれが抱く「上質」を、すり合わせ、共有し、学校の目指すカタチにしていくことが、ハッピーマネジメントによる学校経営のスタートでありゴールなのかもしれないと思ったのでした。

知覚のシステム

以前、日本選択理論心理士の齋藤みずほさんが主催する、選択理論の概要を学ぶセミナーに参加したことがありました。まるで幸せ量子が部屋中を飛び交っているような、優しくアットホームな雰囲気のセミナーでした。

みずほさんは、理論の説明と同時に、ぺアでの対話や、グループディスカッション、ロールプレイなどを適宜配置して、理論がどのように活用されるかを展望しながら進められました。

 

よく私たちは「理論と実践」「研究と活用」などという言葉を使います。その際、理論を学んでから実践する、とか、まず研究があり、然る後に活用がある、といったように、順序立てて時系列で捉えがちです。例えば授業でよく見られるのは、「意味や活用や楽しみはずっと先になってわかる。だから今はそんなことを考えずにまずガマンして基礎を学べ」などという言葉をスローガンに、ドリルドリルの「あぜ道」をひたすら歩ませるというもの。

でも私は、「理論」と「実践」は同時並行的に、そして循環的・一体的に学び進めていくことが理想的な学びではないかと思っています。そして、基礎を学ぶ中にも活用のエッセンスを取り入れることは可能です。

 

みずほさんのワークショップはまさにこれでした。私はこのセミナーで多くのことを学びました。その具体的内容について、ここで言及するわけにはいかないので、セミナーの冒頭に話された、「知覚のシステム」の部分について、感じたことを、以下に私なりにまとめてみたいと思います。

ちょっと数学の話題

私たちは、現実世界で、モノを見たり、人の話しを聞いたりするわけですが、そこで得た知覚は、実は現実と同一のものではなく、脳内で、ある種のフィルタを通したものを「現実」と認知しているということです。選択理論心理学では、このフィルタを、

感覚、知識、価値の3つにまとめています。

 

例えば目の錯覚のように、感覚システムの誤作動的なもので、見える世界が現実と変わるということもありますが、それだけではなく、目の前の現実に対して、自分の中で、ある価値を付加して、それを現実として見てしまっているということもあるわけです。例えば、無意識に、「自分がこうありたい」と思う方向にバイアスをかけ、それを自分の中で「現実」であると了解してしまうというように。そうした「現実」と、実際の現実の違いがきっかけとなってある種の行動が選択されるわけです。

私はこの話を聴いたとき、ある数学の問題を思い出しました。ちょっとここで脱線して、そのことを述べたいと思います。

高校1年生の2次関数の問題で次のようなものがあります。

変形して頂点と軸の方程式を求めておきましょう。

軸の方程式は直線 
頂点の座標は 

この2次関数は、パラメータaが変化することでグラフが変化します。ここで、多くの教師は、図のように、軸が、

① 0≦x≦2の「オビ」の左側にある場合

② 「オビ」の範囲にある場合

③ 「オビ」の右に外れている場合、

の3通りの場合に分けて説明します。


つまり、軸<0のときは、最小値は左端の値、0≦x≦2のときは、最小値は頂点のy座標の値、2≦軸 のときは、最小値は右端の値、というようになりますね。

普通は、上の3つのパターンをまとめて下の図のように示されます。

つまり、軸<0のときは、最小値は左端の値、0≦x≦2のときは、最小値は頂点のy座標の値、2≦軸 のときは、最小値は右端の値、というようになりますね。

普通は、上の3つのパターンをまとめて右の図のように示されます。

ところで、この2次関数の変化の様子をパソコンでリアルに表示させるとどうなるでしょうか。aの値を少しずつ変化させたときのグラフの動きを、下の様なGIFファイルを作って表現してみました。

 

これを見ると、軸の横の動きよりも、グラフの上下の変化が気になってしまい、最初に考えたような場合分けの図はイメージしにくいように思います。例えば、ある人は、グラフのこのリアルな動きから、「aが変化しても、常に原点を通る」ということに意識が向かうかもしれません。またある人は、「頂点が、上に凸の放物線上を動く」と考える人もいるかもしれません。

つまり、最初の図は、「最小値を求める」という前提によって、「常に定点を通る」とか「頂点の軌跡がy=-x^2上にある」などという「事実」を捨象して、軸の位置と帯の関係だけにフォーカスして表現したということです。

 

教師は「自分が見たいように見たものを生徒にも見せる」わけで、それこそが真実だ!とばかりに口角泡を飛ばして説明しても、生徒の現実とマッチングしない場合、うまく理解されないということもあるわけですね。まあ、でも、数学の問題解決においては、動的な対象に対して、何を固定して何の動きに着目するか、そのために、いかに余計なものを捨象して「~を、~と見る」ということができるかが一つのポイントのように思います。

 

さて、オマケとして、もう一つ数学の話題をあげておきます。私は大学時代、心理学にハマったことがありました。といっても、私がハマったのは、計量心理学と数理心理学でした。計量心理学では、自分の専門だった符号理論とも関連させながら、テスト理論とか意味論とか、認知心理学と情報理論との関連分野にとても興味を抱いていました。一方、数理心理学では、「視空間」の数理に関する話にとても興奮したことを覚えています。当時読んだ書籍は処分してしまったので、詳しい内容は記憶の外ですが、その興奮した内容とは、人の視覚のモデルに関するものでした。

リアルの場(物理空間)で知覚されたあるカタチは、視空間ではどのようにカタチになっているか、いわば物理空間がユークリッド空間のとき、視空間は、どのような幾何が成り立つ空間であるかという話だったと思います。

その結論として、視空間は、負の定曲率を持つリーマン空間であり、そのモデルとして、「擬球面」が取り上げられていたのです。ええっ擬球!(ハアハア←興奮)擬球ってどうやって作るかわかりますか。これが凄いんです。(ハアハアハア💦)

擬球を作るには、まず指数関数から懸垂線(カテナリ)を得て、その伸開線からトラクトリクス(牽引線)を作り、その母線をx軸周りに回転させることで得られる立体なんですね(ハアハアハアハア💦💦💦)。

指数関数も、カテナリもトラクトリクスも、自然界の中の力学を記述する、とても重要な図形なのです。それらが勢ぞろいして生まれてくる「擬球」は、数学をやっているものにとっては感動物語なのですね。

こんなことを書いていたら、昔読んだ数理心理学の本をもう一度読み直したくなりました。うーん残念。

すみません。数学話に脱線してしまいました。

まあ、リアルな物理空間そのものではなく、それを我々は変換して「視空間」として見ているという話しです。

無意識の行動

話しを戻します。現実と、自分がこうでありたいと思うところの「現実」の狭間で「うっ」となった瞬間、ある行動が選択されるわけですが、みずほさんは、その瞬時に選択される行動の集合体を「タンスの引き出しにしまわれたモノ」と例えられました。

私たちは行動を選択する際に、無意識に、タンスの引き出しの一番取りやすいところに手を出してしまいがちです。

例えば、誰かの言葉が、自分がそうでありたいと望むことと合致しない場合、タンスの引き出しから、「批判する」「責める」「文句を言う」などといった行動を安易に取り出してしまうかもしれません。

みずほさんは、適宜「タンスの奥の方にあるものを取り出して整理する」習慣を作ることが必要であると言われます。それは、あくまで自分を守ろうとする、いわば自分に向かうベクトルではなく、相手との人間関係の改善を優先するという、相手に向かうベクトルで行動を選択するということです。絵に描いてみました。

「やさぐれしもまっち」は、自分はいつも正しい、相手は変えられる、といったメンタリティによって行動が生み出されています。一方、「ハッピーしもまっち」は、相手は変えられない、人によって上質世界は異なる、という内発的な動機づけによって行動が選択されます。これが内的コントロール心理学(選択理論)による行動ということだと思います。

では、私たちは、自分が「嫌だなあ」と思うような困難な事象に遭遇した場合、「ハッピーしもまっち」のような行動を「身体化」するにはどうすればいいのでしょうか。

セミナーでは、様々なケースを想定したロールプレイ(模擬カウンセリング)を体験することによって、「やさぐれ」から「ハッピー」に向かっていく「レバレッジポイント」のようなものを実感することができたように思います。

 

私は、このワークをしながら、ポジティブ心理学の研究者であるボニウェルの「SPARKレジリエンスプログラム」における「7つのオウム」を思い出していました。そのことを最後にまとめておきたいと思います。尚、このボニウェルの研究の話は、みずほさんから紹介された「実践ポジティブ心理学」(前野隆司)という本に書かれているものです。

 

レジリエンスとは、人が困難に遭遇しストレスを受けた時、それを自然に治癒するために働く心理的プロセスのことです。ボニウェルはこのレジリエンス力を高めるためにSPARKというプログラムを考案しました。困難に出会った時の思考や行動を次のようなSPARKのサイクルで分析します。

 

■S(Situation) 事実に目を向け状況を把握する。

■P(Perception) 事実を、感情を入れずに受けとめ解釈する。

■A(Auto Pilot) 解釈によって、自分の中で自動的にどんな感情が生まれるかを把握する。

■R(Reaction) その感情がどのような行動に影響するかを理解する。

■K(Knowledge) その状況から何を学んだかを理解する。

 

この中の、PとAがポイントです。自分が事象をどう捉え、どんな感情が芽生えるかのパターンとして、心の中に飼っている、次の絵のような「7つの思い込みオウム」を意識することが大切なのだそうです。

「ああ、また今度も『正義オウム』が発動されたか」「今回は『批判オウム』を黙らせることができたぞ」などというように、Kの部分で振り返るわけですね。それを繰り返す中で、オウムを上手に飼いならす、つまり自分の考え方に柔軟性を持たせることができ、レジリエンスが強化されるということですね。

 

選択理論心理学や、ポジティブ心理学や、アドラー心理学も、楽しく、ハッピーに生きるということに深く根差したものであって、学問としてそれをどう理解したかというより、そのエッセンスを自分の人生にどう生かしていくかということが大切なことなのかもしれない。そんな感じでまとめてみたいと思います。長文におつきあいくださりありがとうございます。