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教師の側から語る禁断のメッセージ

What Would you do?

 What Would you do?というテレビ番組をご存じでしょうか。アメリカのABC放送で放映されていて、その切り抜き動画がYoutube上にたくさんアップされています。この番組はあるシチュエーションの下で、人間がどんな行動をとるかを、カメラの隠し撮りによって人間観察するという内容、いわゆる「モニタリング」です。しかし、この番組のポイントは、ただ一般人をびっくりドッキリさせることを目的とするのではなく、いじめ、格差、差別、偏見などの社会問題をテーマにして人間の価値観に基づく行動を掘り下げていくところにあります。Youtubeの動画は短くスッキリまとめられているので、ついついハシゴして観入ってしまいます。

 

 そのWWYDの中で、教師の自己犠牲的精神にスポットを当てたものがありましたので、今回のブログではそれについて取り上げながら、日本の教師の状況について私見を述べてみたいと思います。

 

 動画の内容はこんな感じです。まず、ある教師が、学期の始まりに生徒の学用品をスーパーで大量に購入するのですが、お金が足りなくて、自分の食料の分を犠牲にしようとする場面が仕掛けられます。その光景を見ていた人はどんな行動をとるかを隠しカメラでモニタリングするというものです。

動画はこちらになります。皆さんもぜひご覧ください。

 

 さて、皆さんはどんなことを感じましたか。私は、これを観て最初に感じたことは、アメリカでは教師が生徒のために身銭を切っているという現状が、社会問題としてコンセンサスを得ているんだなあということでした。そうでなければ、人種差別やいじめなどの問題と同列に並べてこのような番組を作ることなどないはずだからです。

 因みに、この番組では、多くの一般人が、教師に手を差し伸べている様子が見られます。ある女性は次のようにいいます。

「教師って大変な仕事なのに、お給料も少ないし、敬意を払ってくれることも少ない仕事よね。」

 そして最後に登場する若い青年の言動は圧巻です。彼は、そうすることが当然のような自然なしぐさで、自分のキャッシュカードで教師の分を支払い、なおかつ袋詰めも手伝います。

教師が「あなたがそんなことする必要はないのに」というと、彼はこう言います。

「そういう問題ではないんだ。僕は不自由していないし。僕はただ教育制度ってものを大切にしたいんだ。僕の友達に何人か教師がいるんだけど、みんな自分が払うべきではないものにお金を支払っているんだ。そんなの悲しいよね。」

その言葉に対して教師が「教師のことをよく知っているのね。とても厳しい時期なのよね。」と答えると、彼は、

「とてもストレスを感じちゃうよね。僕はあなたのしていることに感謝している。」と話し、これがモニタリングだと分かった後は次のようにまとめます。

「教師たちはいつも多くのストレスにさらされて参っているんだ。だから神が自分に多くを与えてくださったように、僕も自分の人生で、他の人に何かを与えたいんだ。」

 

 この番組がヤラセではなくガチ番組であることを前提としてではありますが、私はこのシーンには本当に唸ってしまいました。

日本では教師が生徒のために身銭を切ることなどない?

 さて、ここで日本ではどうなのか考えてみたいと思います。恐らく日本では、教師の自己犠牲的な状況が問題視されることはなく、だからこのような番組が作られるということはないだろうと思います。その理由として考えられることは以下の2つです。

 

①日本では教師が生徒のために身銭を切ることなどないから問題にする必要はない。

②教師が生徒のために身銭を切るのは当然であるから問題にする必要はない。

 

 ①ついては2つの考えがあると思います。一つは、日本の教育システムは他国より優れていて公助が徹底されているし、各家庭の貧富の差も少ないので、各種学用品や副教材は学校会計やそれぞれの家庭で賄うことが可能であるという見方です。もう一つは、そもそも身銭を切ろうとする教師などいるわけがないという偏見です。これらについて私見を述べたいと思います。

 

 まず、日本の教育制度について言うと、OECDの調査では、初等教育から高等教育の公的支出のGDPに占める割合を算出して世界ランキングを公表していますが、日本は2019年は最下位、2020年はワースト2位という状況です。また、家庭においても、日本の相対的貧困率(年収がおよそ125万円以下の割合)は世界でワースト2位という結果も報告されています。基本的に日本では教育に対する予算が乏しく、そのため金銭的にも時間的にも、そして精神的にも教師への過重な負担が強いられているのが現状なのです。

 

 次に、二つ目の生徒のために身銭を切ろうと考える教師は存在しないという考え方はどうなのでしょう。まず、教師は生徒の学用品を買いそろえること以前に、自分自身の教材などを揃えるために多くのお金をつぎ込まなければなりません。それは教師なんだから当然だといわれそうですが、例えば書籍の類であれば、教科や授業力一般に関する物だけに留まりません。私がICT担当をしていたときは、ネットワークの構築や、VBAの開発の必要に迫られ、多くの本やソフトを買いまくって勉強していたし、バスケットの顧問の時は教則本だけではなく動画コンテンツを何本も買って部活指導に役立てていました。ハンド部の顧問に代わると今度は同様にハンドの勉強をしなければなりません。生徒の練習や試合の様子を撮影するために購入するビデオテープやカメラも相当な出費です。私の知っているバドミントン部の顧問は学校予算だけでは足りないので年間30万くらい自腹でシャトルを買っていました。部活で言えば生徒の引率費を安くするため、自ら大型免許を取ってバスを運転する顧問もいます。そのほか、クラスマッチや文化祭の打ち上げなどの場面でクラスの生徒にアイスをおごったり、教室の展示物や様々な教材づくりにお金をかけている教師も普通にいます。そういえば先日、勤務校のある教師が、クラスの生徒全員にミニホワイトボードを自腹で買い与えて授業やクラス経営に活かしていると話されていました。このようなことは私の周りでは全く特別なことではありません。

 

 手前みそで恐縮ですが、最近の私の例を少し記します。私は、この4月から私学で中学生と高校生の数学を担当することになりました。授業準備として、デコパネを大量に購入して紙板書の教材を作りました(写真下左)。また6種類のオリジナルチロルチョコを90個ほど注文しました(写真下中央)。これは基本的に、生徒へのプレゼント用ですが、席替えのための「くじ」や、「数学通信」での懸賞問題の景品にも使います。そして、授業で配布する各種プリントを綴っておくファイルを100均で購入しました(写真下右)。担当する生徒全員分なので80冊です。そのほかに、どうしてもカラーのプリントを配りたいときは、近所のスーパーに行って1枚30円で人数分カラーコピーします。もちろんこれらは全部自腹です。年金暮らしの私には結構な散財ではありますが、それより授業を充実させるための教材準備が優先されます。


「なぜそこまでやるの?」「そんなことにお金を使う方がナンセンス」

「むしろそれは罪悪」「単なる自己満足と生徒への迎合」

 私はしばしばこのようなことを言われます。もちろん、自腹を切るようなことをせず、生徒の受益者負担にするか、学校にあるモノで賄う教師もいます。

 

 公立学校では、県費の他に各家庭から集金した私費があって、そこから教材費として生徒の教材や副教材をある程度は準備することも可能です(学校によりますが、私学ではボールペンやクリップや輪ゴムやホチキスの針まで、学用品はすべて教師の個人負担で賄うというところも普通にあります)。だからデコパネなどわざわざ準備しなくても、学校で調達できるものを使うのが正しい道なのかもしれませんね。

 

 でも一方、私は教師の仕事とは「やらなくてもいいこと。だけどやる」「やらなくてもいいこと。だからやる」というものではないかとも思うのです。私は「数学通信」を作ったり、教具や教材をせっせと作ります。でもそれは決してヒマだからとか趣味だからではありません。口幅ったいですが、それこそが自分が「私の授業」を維持していくために譲れない生命線のようなものだと考えているからなんです。

 

 ホメオスタシスという言葉がありますね。生体恒常性と言われる生物学上の重要な概念です。私はこれを、自分が置かれた環境の中で、明日の自分が昨日の自分と同じように存在するために、実は数千万もの細胞がターンオーバーされている、つまり、変わらぬ自分であるために、変化し続けることと理解しています。

 

 このことと同様に、毎日の授業を一つのポリシーで持続していくためには、つねにプラスアルファを考えながら授業を変化させ更新していくことが必要なのではないかと私は思うのです。

 ちなみに、私の授業ポリシーは「楽しく学ぶ、遊ぶように学ぶ、その楽しさを他者と共有する」です。そしてその中で「数学の楽しさや、奥深さに気づく」ことができれば最高だなあと思っています。そのようなポリシーを持続させるためには「それまで積み上げてきた定番のコンテンツをそのまま使いまわす」ことではモタナイのです。自分自身がモタナイのであれば、生徒のモチベーションもインタレストも主体的な学びも生まれないのではないかということです。

 

 余談になりますが、最近私は、飽きっぽいことはクリエイティブの源ではないか、という気づきを得ました。それは単に私の飽きっぽい性格を正当化しようとして苦し紛れに編み出したロジックかもしれませんが(笑)。

 授業者がつねに新たな見せ方や新たなコンテンツを考えたり、開発していくことは、マンネリから脱して、クリエイティブでありたいという教師の本能ではないだろうか。それは、授業の中にカオスや多様性を放り込むことで価値が創造されるように、新たな教材を作り続けるのは、それらが、生徒の主体化を促進する触媒になり得ることを期待しているからではないか。そんなことを思うのです。因みにここで言う教材とは、教具のような物理的なものだけではなく、「問い」のような頭の中でクリエイトされるものも含みます。

 さらに言うと、教師とは、生徒に学力を「身につけさせる」人、ではなく、新たな教材を開発し続ける人と定義しても良いのではないかとも思うのです。教師が前者であるとすれば、授業に必要なのは黒板とチョークと教科書とノートと教師のトークで十分。それ以上でもそれ以下でもなし。しかし後者のようであれば、それはモチベーションやインタレストを喚起する授業を創造する人とも言い換えられます。そして教師が前者のような人であれば、それは今やAIにとって代わられる生業とも言えるかもしれません。

 

 なんか話が本題からそれてしまって暴走しちゃった感がありますが、少なからず教師は後者のようなマインドを持っていて、だからこそ時間や金銭を授業のために投資しているということだと私は思っています。

 

教師が生徒のために身銭を切るのは当然である?

 さて、本題に戻って、②の「教師が生徒のために身銭を切るのは当然であるから問題にする必要はない。」という視点についても私見を述べておきたいと思います。ここでは特に公立学校の教師という範疇で考えてということになりますが、私はこの文脈から「教師は我々の税金で養われている」というお決まりの教師バッシングのメッセージをどうしても感じてしまいます。

 

 「税金泥棒」「教師は民間と違ってお気楽」等々、私は若い頃からこんな言葉を何度も浴びせられてきました。教え子が車で引っ越しの手伝いに来てくれた時に、近所の方から、彼らの駐車の仕方が悪いといって浴びせられた言葉が「それでも教師か」「何を教えてきたんだ」でした。生徒の通学マナーが悪いといって怒鳴り込む人のとどめのセリフは「勉強だけ教えていればいいのかよ。」。出ました!定番フレーズ。どう考えても理不尽な要求をつきつけられ、それを正そうとすると「お前は日教組か」「在日か」といわれたこともありましたねえ。学校の教育方針に匿名電話で何時間もクレームをつける人との対応は教師の心をずたぼろにします。いじめが起きると、世間の目は、いじめる子どもたちや彼らの生育過程などの環境ではなく、学校のあり方、教師の姿勢にだけ向けられます。なので、いじめが起きると関係教師は24時間勤務態勢で寝る間がありません。学校は不夜城です。

 

 私は、かつて大規模な校内暴力事件があったとき、学年長だったのですが、それが収束するまでの約半年間はほとんど寝ることができず「こりゃ死ぬかな」と思ったことがあります。妻は過労死のことを考えて私の毎日の帰宅時間や家での様子を記録していました。若い頃は車を破壊されたことや、スプレーで車に落書きされたこともありました。挙げだすとそんなことは枚挙にいとまがないわけですが、そのたびに自分の教師としての姿勢や力量を問い、自己批判し続けてきました。

 

 確かに、いじめや不登校など、学校における多くの問題は、学校組織や教師によって生みだされたものもあるでしょう。

しかし、その責任の所在をすべて教師や学校の在り方に求め「教師のマインドセットを書き換える」「カリ・マネで組織を変える」など、内部からのみ問題解決をしようとするのは、むしろ、教師の疲弊を加速するものになっているのではないかと思うことがあります。

 また、「働き方改革」は、「行政的成果」から逆算して、働く時間の見た目を管理職の責任でコントロールせよ、という実態からかけ離れた制度にしか見えず、本質的な問題解決には全くなっていないと私は感じています。

 

教師の前に立ちはだかる壁

 学校は塾や予備校とは異なり、全員が「大学進学する」とか「模試の偏差値をあげたい」という思いを共有している場ではありません。進学する生徒、就職する生徒、まだ何も考えていない生徒、部活だけやるために学校にいる生徒、まったく勉強に興味も関心もない生徒、友達とおしゃべりする生徒、いつも寝ている生徒、教師の佇まいを内面化し受動する生徒、そして、真面目に努力する生徒、心優しい生徒、悩み苦しんでいる生徒、等々多様な生徒たちが共存しているのが学校で、そのような中で、学級経営や部活動や分掌の仕事を抱えながら毎日の授業を行う教師の苦労はとても大きいのです。

 

 私はときどき学校に呼ばれて講演や出前授業を行います。すると、とてもよい反応をいただくことが多いです。「どうすれば先生のように子どもたちが生き生きと学びだすような授業ができるんですか」などと言われるととても嬉しくなります。でも、それは出前授業というワンショットの、いわば一期一会の場というコンセンサスが生徒にも私にもあるから「素晴らしい授業に見える」に過ぎないわけで。もっというと、先生方が私のために用意してくださった場に六方踏んで現れて、一人気持ちよくさせてもらっているということなんですね。つまり、年間を通して授業を行っている先生方の苦労から見れば、まあお気楽な話なんです。

 

 学校で日々行われる授業は、いつでも対話や生徒のアクティブな活動によって進められるわけではありません。時には、ベースとなる知識や技能を教え込むトレーニング型の、ある意味あぜ道を歩くような授業だってしなければならないでしょう。時には子どもたちをテストで序列化し、課題で追い込み、𠮟責もするわけです。なぜなら、教師が子どもたちに主体的な学びを提供することを考える前に、「学習指導要領の法的拘束性」「生徒や保護者のニーズ」「生徒の発達や生育環境、人間関係の考慮」「大学入試への対応」などの多くの壁が立ちはだかっているからです。

 そんな中、多くの教師は、そういった火中でもがきながらも、火の粉を振り払い、健気にその枠の中で工夫を凝らし、ささやかな教材を創り、他者の実践や研究会などで学び、目の前の子どもたちをハッピーにして彼らと喜びを分かち合っていこうとしているのです。

 

 私が校長をしていたとき、管理職の使命とは、そんな教師に光を当てつつ、旧態依然の学校組織に抜本的なメスを入れることだと強く思っていました。しかし結局私は自身の無力を感じるばかりでありました。

 

外野からの教師への応援が必要

 一億総教育評論家などと言われるほど、あらゆる人たちが巷で教育を語っています。このように広く教育が語られることは大変好ましい状況だと思います。しかし、その多くが学校批判や教師の資質を問題視するものであるのはとても残念です。

 

 先日、NHKのクローズアップ現代を見ていたら立教大の中原淳先生が出演されていて、初等教育における教師の大変さについて解説されていました。私は「お!中原先生、もっと言って!」と色めき立ちました。

 

 今回私は、WWYDの動画を観て心が動かされた勢いで、敢えて教師の側から、教師の大変さを語ってしまいました。実際これは野暮な話です。愚の骨頂の極みです。そんなこと教師自身が語るべきではないというのが正しい見識なのだろうと思います。

 ならば、中原先生のように、冷静な視点で状況をリサーチし、そこに横たわる課題を正当に看破し、援護射撃をしてくれる存在が今こそ必要です。もちろん外野からの批判はとても大切です。なぜならそれは教師や学校への期待の現れであり、また貴重な情報源でもあるからです。

 

 しかし、その一方で、WWYDの場面とまではいかなくても、教師が直面している問題を少しでも理解してくれる空気が生まれてくればとても嬉しいです。そうでなければ、今のようなブラックな学校現場で教師になろうという若者がますます減っていくように思うのです。