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育てたい生徒像に基づく学校改革

2017年8月27日に熊本で行われた「教育改革推進フォーラム」での講演をおこしたものです。

 


育てたい生徒像を「主体化」と「社会化」の面から捉えなおす

  • チェックインとアイスブレイク 
  • 20××年問題・新しい価値が創造される背景 
  • 教師のホメオスタシス
  • 新しいものを「良きもの」にするには
  • 学校組織のホメオスタシス
  • 子どもはそもそも主体的な存在である
  • 学校のミッション・授業のミッション

🔳 チェックインとアイスブレイク

最初に「Alike short Film」という5分間の動画をご覧いただきます。実は、今日お話ししたいテーマがこの動画の中に潜んでいます。登場する父親の顔色が白くなったり青くなったりするところからどんなことがわかるか、バイオリニストの存在は何に譬えられるか、など、現在の高校教育と対比しながらご覧いただければと思います。

(動画終了)

 これから約3分間で、隣の席同士で意見交換してください。時間があれば、この動画にどんなキャプションをつけるかを考えてみてください。

(ディスカッション終了)

 

では2、3人の方から感想を伺いましょう。松島渉先生いかがですか。

 

松島 私はこれを観るのは2回目なのに、泣いています(笑)。バイオリニストの存在は何なのかというと、それはアートだと思います。子どもが実際の音楽がなくても最後にお父さんのもとに行くというのは、アートとは思いを表現することであり、それが子どもの心に響いたということなのではないかと思います。

 

どうもありがとうございました。「アートの心」とは思いを行動に移す表現活動であると。これは私たちの授業ではどう例えられるか、などということも考えてみたいですね。あのお父さんは、バイオリンは弾けないけれど、子どもの前で、弾くパフォーマンスをしてみせる。周りから変な目で見られるけれど、そこを敢えて勇気を振り絞って踏み出したところがこのストーリーのポイントですね。では次に和田美千代先生にお願いします。

 

和田 どのように学ぶかは、どのように働くかにつながっていると思うのですが、動画を観て、どのように働くかが、どのように学ぶかを規定するんだなと思ったのが一つです。それからバイオリニストがいなくなったことによって、お父さんが当事者として表現をしたところに、お父さんの成長を感じました。

 

そうですね、親の働き方と子どもの学び方が相似形のようになっている、互いに関係し合っている、私もそんなことを感じました。そして、和田先生がおっしゃるように、これはお父さんの成長物語でもありますね。実は、子どもは何も変化していなくて、変化したのは親だったということ。ここで、「親」を「教師」または「学校」に置き換えて考えたときどういうことがいえるか、実はこれは、本日のテーマの一つでもあります。

 

私はこの動画を、先日行ったあるワークショップで見てもらいました。すると、次のような意見が出されましたので、参考までに紹介したいと思います。

 

・バイオリニストの存在はすべての人の中にあるアートの心を象徴している。

・最後にバイオリニストはいなくなる。「バイオリニスト」とは、効率性、合理性重視の社会のなかで、見失われ、切り捨てられてしまう本当に大切なもの、と捉えることができる。

・子どもはもともと主体的な存在であるとともに、その一方、親や学校が望むカタチに矯正されてしまう存在でもある。

・私たちの目の前にいる生徒の姿は、良くも悪くもいわば教育という関数によってつくられた像なのかもしれない。

・父親の顔色は、最初は子どもを抱いたときに青く変化するが、最後のシーンでは抱く前に青くなっている。これは親のマインドセットが変わったことを示している。

・大切なのは子どもを変えるのではなく、大人が勇気を持って変わることだ。

 

みなさんからもこういう感想が出てきたと思います。それではこのことを踏まえつつ、本題に

入らせていただきます。

 

🔳 20××年問題・新しい価値が創造される背景 

スライド1
スライド1

スライド1をご覧ください。よく登場する20××年問題についてまとめたものです。2017年の今、高校2年生はほぼ17歳ですから、西暦の下2桁は彼らの年齢になっていきますね。2040年になると彼らは40歳、2100年には100歳という具合です。

 

このスライドからいえるのは、「高齢化社会」ならぬ「超・高齢化社会」、いやいや「ウルトラ・スーパー・超絶高齢化社会!」(笑)の到来ということです。

 

また、人口知能の進展やグローバル化にともない、社会のボーダーレス化が進んで行くとも言われています。そのような中、よく取り上げられるのは「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は大学卒業時に今は存在していない職業につくだろう」という指摘です。キャッシー・デビットソンは、これを言った当時はデューク大学の教授でしたが、今はニューヨーク州立大学にいると思います。それだけずっと時を経て語り続けられているということですね。

 

またオックスフォード大学のマイケル・オズボーン、カール・ベネディクト・フレイの「今後10~20年程度でアメリカの雇用人口の約47%が機械によって代替可能になる」という予想も、うんざりするほど語られます。もう耳タコですね。そろそろ、彼らの言葉を検証する時代に入っているのではないでしょうか。

 

そのような新時代到来に対して、私たちはどのような心構えを持つべきか、どう変化していかなければならないのか、またその変化とはどういうものなのか、などということについて話していきたいと思います。

 

マサチューセッツ工科大学の伊藤穣一先生(MITメディアラボ所長(㊟当時))は「AI時代の9つの考え方」ということで次のようなことをお話されています。

 

 Resilience over Strength (強さよりも立ち直る力)

 Pull over Push (押す力よりも引き寄せる力)

 Risk over Safety (安全・無難よりもリスクを取る)

 Systems over Objects(単体よりもシステム)

 Compasses over Maps (地図よりもコンパス)

 Practice over Theory (理論よりも実践)

 Disobedience over Compliance(服従・順守よりも不服従・反抗)

 Emergence over Authority (権威よりも現場)

 Learning over Education (教育よりも学び)

 

非常に示唆に富む深いまとめではないかと思います。そして、興味深いのは、どれも「~よりも」という形で書かれていることです。つまり、新しい価値観や手法・システムとは、それが単にトレンドとしてポンと出てくるのではなくて、それまでの価値を「乗り越える」という文脈で登場するのだということです。

 

そう考えると、今叫ばれている「観点別評価」とは、「相対評価・行動主義的評価観」を乗り越えるもの、そして、「アクティブラーニング」は「講義型・一方向型授業」に限界を見て、それを乗り越えるもの、という捉え方をするべきだと思うのです。だからアクティブラーニングを、単にその手法自体にフォーカスしにいくのではなく、その前にどういうことがあって、どういう反省のもとでそれが登場してきたかを私たちは、考える必要があると思っています。

 

🔳 教師のホメオスタシス

 

私たち教師は、しばしばキャッシー・デビットソンやマイケル・オズボーンの話を引き合いに出しながら、ドラスティックな社会の変化を語ります。そして、生徒に対して「だから君たちは変わらなければならない」と力説します。更に言うと「生徒とは教師によって自在に変えられる存在」だと思っている教師も少なくないと思います。

 

でも私はそこで、次のような問いにぶつかるんです。それは、「では、学校や教師自身は変化を受け入れ、自らを変える存在であるか?」というものです。

 

私は最近、生化学に凝っていて、「教師・学校組織のホメオスタシス」というものを考えています。みなさんホメオスタシスってわかりますか。ここに溝上広樹先生がいらっしゃいますので、ホメオスタシスの意味を簡単にお話ししていただけますか、私の意を汲みながら(笑)。

 

溝上 はい、ホメオスタシスというのは、生物の恒常性といわれ、体の状態・仕組みを一定に保とうとする働きです」

 

ありがとうございます。今の自分の状態に保つというと、一見、かたくなに自分を変えない、だから何もしない、突っぱねる、というイメージを持ちそうになりますが、でも実はそうではないんですね。

 

「一定に保つ」ためには、何もしないのではなく、バックに凄く大きな働きがあるわけです。人間は1分間に何億個という細胞が書き換えられていて、そのような代謝によって、昨日の自分と変わりない今の自分が奇跡のように存在しているということなんだそうです。ですから、例えば、自分が置かれている環境が変化したとき、それに機敏に対応しながら、自分の体質を変化させ、生命を維持していくことこそホメオスタシスだと私は理解しています。

 

 

スライド2
スライド2

さて、では、ここで、「教師・学校組織のホメオスタシス」という話をしたいと思います。スライド2をご覧ください。

 

人間って基本的に変化を好まない生き物ですよね。そして、できない言い訳をひねり出す天才なんていわれます。

 

そんな中、例えば文科省から「アクティブラーニングを推進せよ」なんていう「環境外圧」がかかったとすると、私たちはそれをどう受け止めるでしょうか。

 

私は、スライドにあげたような次の二つの道があるように思います。

 

①従来の自分の考え方をそのまま温存する

②自分のマインドと折り合いをつけようとする

 

そして、①の状態から展開される行動パターンとして、批判して拒絶する、または、形式やノウハウだけ取り繕ってやったふりをする、ということが予想されます。これは、一見、自分を保つからホメオスタシスが働いていると考えそうですが、それは違います。リバウンドの世界です。

 

それに対して②は、変化を受け入れながらも自分の軸を保とうとするスタンスです。自分のマインドと折り合いをつけようと考えると、人は「なぜ」を掘り下げます。「なぜそういうことを言われなきゃならないのか」、「なぜ今主体的、対話的な学びが叫ばれるのか」「では、自分の目の前の生徒にとってどのような授業を提供すべきなのか」「自分がなすべきことは何か」と。このようにWhyからHow,whatに問いが向かっていきます。

 

そのような中で、新しい価値に気づきだすのではないかと思うのです。ブレない自分軸を維持するために変化を受け入れていくこと。これこそがホメオスタシスが働いている状態ではないかなと思います。

 

 

🔳 新しいものを「良きもの」にするには

 

数日前に千葉県で「授業先取りセミナー」というのがありました。私はセンター試験に代わって登場する大学入学共通テストの数学の問題を評価するという役割を担っていたのですが、わりと批判的な視点で評価したスライドを用意していたんです。そうしたら、目の前に文部科学省の人たちがずらっと座っていたんですね。こりゃまずいなと思い先手を打ってこんなことを言いました。

 

新しいものを『良きもの』にするのは、それを進めるイエスマンの存在や忖度の文化ではない。むしろ批判的な視座に立つカウンター勢力の存在が大切ではないか。(byしもまっち)

 

私みたいな批判的な存在がいかに大事かってことを先回りして言っておいたんですね(笑)。

考えてみると、例えばアクティブラーニングも、最初はラーニングピラミッドを伴って、学習定着率を高めるスペシャルなメソッドとして登場しました。「だから、これをやればさらに能力アップよ」みたいな雰囲気でした。で、そんなとき「くだらん」とか「そもそも」という人たちが出てくるんですね。でもそんな彼らの存在によって教科・校種・職種・時空をこえた議論の場ができたのも事実です。そして、いまや「日本型アクティブラーニング」は、メソッドを乗り越えて、「生徒が主体的に学びに向かう状態として」、「アクティブラーナーを育てる組織論として」、あるいは「未来に生きる子どもたちを送り出す教師のマインドセットとして」語られています。つまり、このような相克を経てより太いものになっていったわけです。(スライド3 参照)

スライド3
スライド3

このようなカウンター勢力の存在というのは、他者だけではなくて、むしろ自分の中に置くべきではないかとも思います。実際に私も、アクティブラーニングという言葉が躍った当時、それを否定する思いが随分ありました。そのような中で「なぜ」に立ち返って、何度も自問するうちに、自分なりの考えが固まっていったように思います。

 

よく「アクティブラーニングって何?」と、答を単純にワンセンテンスで求めようとする方がいるのですが、まずは自分の中で問いを立てて、「自己内対話」を繰り返し、一つの思いを自分の中に創っていくことが大事なのかもしれませんね。

 

🔳 学校組織のホメオスタシス

 

 

スライド4
スライド4

さて、次に学校組織のホメオスタシスについて考えてみます。

 

最初に、先ほどのスライド2にあげた「①従来の考え方をそのまま温存」という組織について考えます。「多忙で、前例踏襲の文化があり、旧来の価値観に縛られ、変化を嫌う」という組織です。

 

そんな学校に、当局から「カリキュラムマネジメントをしっかりしなさい」、「アクティブラーニングを実行せよ」といった「外圧」がかかったときの対応として、2つのパターンが考えられます。

 

一つは「とりあえずやっつけ仕事的に処理し、やったことにする」というもの。もう一つは「アウトソーシングという名の丸投げ」です。それによって旧来の価値観は温存されるわけですが、どちらにも共通していえることは「思考停止」ですね。そしてそれは「学校のガラパゴス化」への道だと思います(スライド4参照)。

 

スライド5
スライド5

いま私のいる花巻北高校が目指しているのは、先ほどのスライドの②のタイプです。

 

社会の変化に対するアンテナを常に立て、生徒を主体化することにポジショニングし、学校・教師が、変化を受け入れ、重なり合い、つながりあう職場を目指すというものです。

 

そういう学校からは、「とんがって飛び出す教師」が生まれてきます。この「飛び出す」というのは、学校を捨てて飛び出していくのではありません。学校課題や地域課題を背負って、その思いを発信し、境界を越えて連携・連帯をつくりだすリーダーが出現するということです。例えば、九州で言えば、前川修一先生溝上広樹先生のような存在ですね。

 

そこで管理職のミッションは何かと言うと、こういうリーダーをリスペクトし、彼らの活動に光を当て、それを全体に波及するような道筋をつけることです。それによって教員集団のマインドセットが変化し、学校周辺にイノベーションが起きていく。まさにこれは、いま熊本で起きていることではないかなと思います(スライド5参照)。

 

🔳 子どもはそもそも主体的な存在である

 

スライド6
スライド6

突然ですが、この絵は何だと思いますか?(スライド6) 

私の勤務地である花巻市には「るんびにい美術館」という知的障害がい者の作品を展示する美術館があります。そこのアトリエで創作活動をしている小林覚さんというアーティストに、私の名前を書いて欲しいとリクエストしました。紙に「しもまっち ひさお」と書いたら、彼はそれをチラッと見るや、瞬時にこんなユニークな絵を描いてくれたんです。「しもまっちひさお」が潜んでいるのがわかりますか?(会場 どよめく)。

 

私は彼の作品を見て大変感動しました。そしてこれは、冒頭の動画に登場した子どもが、アルファベットの文字をアートなセンスで表現していたことと重なります。

 

先ほど私は、キャッシー・デビットソンやマイケル・オズボーンの話を、疑うことなく判で押したように引き合いに出しながら、「だから生徒は変わらねばならない」と生徒に力説する教師の話をしました。私はそこに、教師自身の根本的主体性のなさと、「生徒は教師のコントロールによって自在に変えられる存在」と考える教師のメンタリティを感じてしまうのです。

 

そんな中、私は小林さんの作品を見て、実は全ての子どもたちはアーティスト、つまりそもそも主体的な存在なのだとあらためて感じたのです。ところが、教育という「社会化(=そうしないと学校や社会から排除されてしまうルール」のフィルタによって、その能力がどんどん潜在化してしまっているのではないかという気がするんですね。

スライド7
スライド7

 

だとすれば、教師は、生徒を変えようと、過剰に足し算をするのではなく、むしろそんな過剰な自分の鎧を脱ぐ、引き算をすることが必要なのではないでしょうか。

 

つまり、子どもたちに「知識や技能」と同様のやり方で「主体性」までも叩き込もうとするのではなく、そもそも既に持っている主体性を「あるがままに」顕在化させるように、教師のマインドを変えていくという感覚が必要ではないかと思うのです(スライド7)。

写真1
写真1

このことについて、最近感動した一つのエピソードを紹介します。花巻北高校で8月7日に文系の3年生99人を対象に「黒橋の鉄人セミナー」という課外講習を行いました。3年生のこの時期の課外講習というと、通常はセンター試験対策やら大学受験に向けての演習になるのですが、今年の進路指導課は、むしろこの時期だからこそ学ぶ意義について見つめ直そう、という視点に立ち大胆な企画を行いました。

その一つが、元岩手県教育長の相澤徹氏による「社会・仕事と自立」という240分ものボリュームのあるキャリア教育に関する講義でした。生徒の感想を見ると、とても素晴らしく、生徒の思いがよく伝わってきました(写真参照)。

 

これらの感想を見た多くの人は、「さすが花高生、能力が高いな」、と言いました。でも私はそのとき、その能力を顕在化させたのは授業の力だったのではないかと思いました。なぜなら、その授業は、元々持っている彼らの力を引き出すようなスタイルだったからです。

 

相澤先生は、初めの30分間講義を行い、次の30分は個人で質問を考えさせます。その後、グループワークを行い、それぞれの質問をグループ内で検討し、クローズな質問をオープンなものに変えていきます。その後は、先生が質問に答える形でディスカッションしていくという講座でした。この「質問づくり」という活動によって、彼らが最初から持っていた能力が顕在化されたのではないかと私は思ったのです。

 

もし、単なる一方向の講義であったなら、彼らはそういう能力を持ちながらもそれを顕在化させるチャンスもなく終わってしまったのではないかと思うのです。

 

振り返ってみると、私が勤務する花巻北高校の生徒の主体的活動が最近目立っています。生徒がいろいろなことにチャレンジするようになりました。すると様々な人が私に言ってくれます、「校長先生が変わったら、生徒も変わったよね」と。そう言ってもらえるのは嬉しいのですが、でもそうじゃないのですね。それは花高生がもともと持っていた主体性が発揮できるような場がつくられただけなのです。それは、教師がいっぱい指導したことによって生徒が変化したというのではなくて、むしろ指導をしなかったことによるものです。だから変わったのは、生徒がもともと持っていた主体性を発揮できるような、教師・授業・学校組織の在り方なのだと私は考えています。

 

スライド8
スライド8

オマケとして、昨日ちょっと考えたことをお話しします。

私は、昨夜寝る前に、こんな問いが浮かびました。

 

「なぜ産能大のフォーラムは継続・発展しているのだろうか。それは産能大が提供する優れたコンテンツがあるからだろうか。あるいは林巧樹さんのカリスマ性・剛腕ゆえなのか」

 

あ、みなさん、ここは笑うところですよ(笑)。

でも、林さんはきっとこう言うでしょう。

「もともと先生方は主体的な学びの場をつくりたいと思っていたはず。私は、そんなみなさんが思いを共有し、つながる場をつくっただけです」と。

 

このような場によって教師の思いが顕在化したのだ、と私は捉えました(スライド8)。

そして今、このフォーラムから多くのアクティブラーナーが生まれ、自己組織化が進んでいます。それは場の生み出す力の勝利であり、そして教師の純真な思いを信じ続けた林さんの勝利でもある。産能大のフォーラムの変遷には、アクティブラーニングのヒントが多く潜んでいると思います。

 

🔳 学校のミッション・教師のミッション

 

スライド9
スライド9

スライド9のように、学校のミッションを、生徒を「社会化する」ことと「主体化する」ことの2つに分けて捉えたとき、どうしても今の公教育は「社会化」という方向に太いベクトルが働いていると思います。

 

つまり「社会に出てうまく生きていけるような力を身につけさせる」という考え方ですね。それがあって然る後に「主体化」・「主体的活動」があるという考え方をされる先生方が多いように思います。まず基礎・基本をやってから主体的な活動だろう、と。

 

でも私は果たしてそうだろうかと疑問を抱きます。主体化も社会化も同時並行的に進めていく、いや、もしかしたら、「主体化」が先行することで、それが「社会化」を促進することになるのではないかとも思っています。

 

だから、教師の授業ミッションと言ったときに、「各教科における知識・技能」をつけるのはもちろんですが、同時に学力の3要素の2番、3番目にあげられている、思考力・判断力・表現力、主体性や自ら学びに向かう姿勢を育てていくことが重要です。

 

スライド10
スライド10

スライド10は社会化・主体化とアクティブラーニングの視点について対応させてみたものです。ちなみに、社会化=「そうしないと社会や学校から排除されてしまうというルール」、主体化=「そうすることで一生成長していける真理」というちょっと過激でキャッチーなフレーズは、五十嵐沙千子先生の言葉から拝借しました。

 

そうすると、先ほど述べたことから、アクティブラーニングとは、スライド10に示すCの方向での学びに対して、よりフォーカスされるものでありたいと私は思います。

 

ところが、最近は「双子の過ち」「活動ありて学びなし」といった経験主義批判を伴いながら、「知識・技能の定着・学習定着力を高める学び」「大学受験と連動する課題解決力を含むディープなアクティブラーニング」という文脈でアクティブラーニングが語られているような気がします。

 

昨日、前川修一先生から熊本地震からの復興における教師のミッションについての話を伺ったとき、東日本大震災津波の際に私が抱いた思いと重なりました。

 

3.11では、非常にたくさんの愛を私たちは受けました。私はそれまで世界の共通語は数学だと思っていたんですが、実はそうではなく「きずな」だったんだと思いました。

 

でも一方で、この震災をビジネスにする人がいました。売名行為的なパフォーマンスも目につきました。もっとひどいのは「東北の人間は汚染されているから関東に来るな」とか、「怪しいお米セシウムさん」(東海TVのできごと)などの差別も目の当たりにしました。

 

そこで私が思ったのは、私たち「教育屋」ができる復興支援というのは、瓦礫撤去などではなくて、他者に共感し、支援する心とか、理不尽なことに毅然と立ち向かう精神、平和と民主主義を希求する態度とか、そういったことを授業の中で育てていくことだと思ったのです。私は、そのためにこそアクティブラーニングが叫ばれていると思うことにしたんです。

 

だから、「どうしてアクティブラーニングをやるのか」と言い出すのは、私の中ではとても不思議なことなんです。アクティブラーニングの目指す姿を、「学び続けてその先を大きくする力」「他者の痛みを自分事に捉え、理不尽に毅然と立ち向かおうとする力」などとするならば、そのためには、「なぜやるか」なんて言葉は出てくるはずがない。それは教育屋として当然やらなきゃいけないことだと私は思うからです。

 

「知識」「主体的で対話的な深い学び」を問い直す

  • アクティブラーニングは学力を伸ばすための手段に過ぎない」を掘り下げる
  • 「学力の3要素の知識について」掘り下げる
  • 夢と手段

🔳 「アクティブラーニングは学力を伸ばすための手段に過ぎない」を掘り下げる

 

昨年、某大学のT先生から「アクティブラーニングは学力を伸ばすための手段に過ぎないんだよ。そこのところを間違えないでね、シモマチさん。そのうち、ゆとり教育のように消えてなくなるよ」ということを言われました。

 

こんなことを、この私に言うんですよね(笑)。みなさんはこう言われたらどんな言葉をTさんに返しますか。せっかくなので2分間くらい隣りの先生方同士でお話ください。

 

(2分間対話)

 

では会場の意見を聞いてみましょう。三浦隆志先生どうですか。

 

三浦 アクティブラーニングを、学力を伸ばす手段だというと、非常に細い限定されたイメージがあって、実はアクティブラーニングを行うことで、さまざまな自己スキルを子どもたちは獲得しています。その自己スキルが子どもたちの力を伸ばし、周りの人たちの力にもどんどん広がっていくというイメージがあります。だからT先生のような見方は、とても狭いところしか見ていませんね、とぼくだったら言います

 

ありがとうございます。Tさんのような権威?のある方って、しばしばこういった評論家的な目線で話しますよね。

では、苫野一徳先生いかがでしょう。

 

苫野 そもそも学力とは何でしょう、って返します。

 

スライド11
スライド11

ありがとうございます。そうなんですよ。私はこれを聞いたとき、「学力」と「手段」という言葉が引っかかったんです(スライド11)。それで、私は即座に「では、あなたの言う学力って何ですか」と彼にきっぱりと問いました。

ただし心の中で、ですが。(笑)

 

更にもう一つ。Tさんは「手段に過ぎない」と言われたのですが。「手段」と言うんだったら、それに対する「目標」や「夢」って何でしょう。これも私は問い正しました。心の中で。(笑)

スライド12
スライド12

わが国では学力を法律で「3要素」として規定しています(スライド12)。だから学力と言ったときに、模試の偏差値を上げるとか、センター試験で成果をあげるとかにばかり汲々としている教師は、学校教育法第30条2項に違反することになって、逮捕されて牢屋にぶち込まれることになります(笑)。

 

ま、それは冗談ですが、学力のそこだけじゃない部分にもちゃんとフォーカスしなければならないという話です。

スライド13をご覧ください。旧来型授業では、今でいう学力の3要素の中の「知識・技能」にまっしぐらでした。その結果「試験に出るところだけを繰り返す」「教科書をぶっぱやく終える」「ひたすらノートをとる」「学習時間の量を増やす」といった方向に授業が流され、その中で「パターンを覚えこむ暗記力」「課題の量をこなす我慢強さ」「教師の教えを守る従順さ」というものを生徒に求める方向に、いわば授業が「荒れて」いったわけです。

 

そういうことをやっていく中で、先ほどの動画のように「学び続ける力がなくなる」「結果だけにこだわる」「疲弊する」という流れが顕在化していったのですね。

 

そして「授業」と「評価」が別物になっているんですね(スライド14)。どんなに授業がアクティブであっても、なぜか評価はやはり期末考査、提出物や小テストによる「平常点」という授業も未だに多いのではないでしょうか。

 

スライド14
スライド14
スライド14
スライド14

スライド15
スライド15

それに対して、「主体的で対話的な深い学び」というのは、学力の3要素にリーチするものです。

すると、さまざまな力を多様な観点から評価していかなければなりません。だとすると一方向的な授業では限界があります。そこで、そのような力を可視化するような授業が必要になってくるということなんです。

 

それによって、「学び続ける」「人生を豊かに生きる」「社会に貢献する」「主体的に生きる」ということにつながります(スライド15)。言い方を変えると、そのような求める力をつけるためにどう授業を設計するかという逆向きに考えていくことが必然になっていくんですね。

 

スライド16
スライド16

この写真(スライド16)は花巻北高校で6月に行われた体育大会の様子です。雨が降ったので女子の棒倒し競技を体育館で行いました。この競技に出る選手には様々な役割があります。棒を倒しに行く子、それを阻止するために体を張る子、必死に棒にしがみついて棒を守る子等々。これが徒競走なら、1位、2位と着順が序列化されますが、棒倒しでは誰が一番なのか序列化できません。でもそれぞれの持ち場で頑張る姿はわかります。

 

ここで、2つのことを指摘したいと思います。一つは、教師は日頃授業の中でこの棒倒しのようなパフォーマンスの場を生徒に与えているかということ。そして、もう一つは、このような生徒のパフォーマンスの様子を教師はしっかり見て評価しているでしょうか、ということです。

 

🔳 「学力の3要素」の「知識・技能」について掘り下げる

 

「学力の3要素」の「知識・技能」について、もう少し掘り下げてみたいと思います。

今、アクティブラーニングという言葉が踊り出す中で、「知識・技能」がちょっと悪者扱いされているかな、と感じます。

 

ここで、今井むつみさんという方が書かれた『学びとはなにか』(岩波新書)を最近読んで私が感じたことを少し話したいと思います。今井さんは、「そもそも知識とは何か」ということを述べている中で、将棋による例えがありました。そこで私はこんなスライドをつくってみました。

スライド17
スライド17
スライド18
スライド18

これは将棋の盤面(スライド17)です。「1分間この図をじっと見て、その後自分で再現できますか?」と問うと、将棋の強い人は「できる」って言いますね。ちなみに私はそんなに強くないのですが、きっとできると思います。

では、次の盤面(スライド18)はどうでしょうか。こちらは将棋のプロでもおそらく再現できないと思います。同じ駒数なのに、なぜ17は再現可能で18は再現困難なのでしょう。理由は18は、ルールを無視してコマがランダム置かれているからです。

 

知識にはストーリーがあるんですね。過去から未来へ向かうストーリーです。だからスライド17の盤面は次の一手がわかるんです。次は飛車先の歩をつくんじゃないかと大体わかる。過去から未来に向かうつながりの、その途中の図だからです。でも後のスライド18の盤面はストーリーを持たない。ただコマをバラバラに並べただけの図ですね。

私たちは「知識」を教科書に記されている「事実」と短絡的に捉えがちですが、そうではなく、知識とは、与えられた事象・事実とその背景にあるストーリーが一体となって整理された状態をいうのだということを今井さんはおっしゃっています。

 

スライド19
スライド19

そういうことを踏まえて、知識を捉えていく必要があると思うのですが、実際に授業の中で行われるのは、スライド19のようなことが多いのではないでしょうか。

 

「今日はこの部分を徹底に理解するよ」「次はここだよ、ここは重要な所だから宿題にも出して何度もやるよ」「ここはテストに出すからちゃんと覚えてね」という具合に。

 

そうすると多分直近のテストはできるかもしれないけれど、テストが終わるとともに忘れ去られてしまうことになるでしょう。それは「知識」ではなくて、断片的な「事実」の蓄積・集合です。

 

今井さんは、これを「知識のドネルケバブモデル」と言っています。ドネルケバブとは、トルコの肉料理で、薄切り肉を重ねて大きな塊にしたものですね。つまり肉をぺたぺたくっつけたように 「つながった生きた知識」にはなっていないということです。

 

スライド20
スライド20

ここでちょっと整理をしてみましょう(スライド20)。

 

「知識」というのは、まず基礎・基本となる事実があって、それらを編み直して、構成されていく、随時更新される生き物のようなものです。

 

知識をこのように構成するためには、他者との対話があったり、失敗体験があったり、リフレクションがあったり、モチベーションが引き金になったりします。

 

そういったことがなく、一方向の教えと、それを受動するだけでは、本当の知識はつくられていかないのではないかと私は思います。

 

スライド21
スライド21

スライド21は、学校と家庭という二元論で「学力・学び」を考えた場合の図です。

 

学校は生徒に知識を授ける場であり、生徒は家庭での予習・復習によって学校で授かった知識を定着させるというサイクルです。

 

それを愚直に繰り返すことで、スパイラル的に学力が向上するという考え方ですね。そのような中で学力の向上を語るとき、教師の課題の与え方や、家庭学習の時間ということばかりに焦点があてられがちになります。

スライド22
スライド22

そこで考えたのが次のスライド(スライド22)です。これは田原真人さんという方の「UWFサイクル」を拝借して私なりにアレンジしたものです。

 

まずこのサイクルの左上の青いベルトは学校や授業で知識をインプットする部分です。そのときに「揺らぎ」が起こります。「揺らぎ」とは「なるほどそうか」という気づきだったり、あるいは「何?」という疑問だったり、または「えーっ!」という混乱だったりします。今まさにみなさんの状態かもしれません。

 

そして次の黄色のベルトに向かいます。これは、「自ら知識をつくりだす・つかみ取る」過程です。でもつかみ取った段階で終わらせるのではなく、さらに次の緑のベルトに進みます。

 

それは他者との対話であったり、協同の活動であったり、テストであったり。将棋でいうなら対局を繰り返すことですね。そういう中で、自分でまとめていた知識が深まっていったり、あるいは自分の欠乏に気づいたり、もっと深い知識・もっと多くの知識を得たいという欲求が起こったりします。

 

そして、それらを満たすべく、また授業などでの知識のインプットが始まります。こういうサイクルでぐるぐる回って、生きた知識が構成されていくというモデルです。これが「主体的、対話的で深い学び」を創り出すサイクルではないかと思います。

 

🔳 夢と手段

 

スライド23
スライド23

次に「夢と手段」についての話をします。先ほど大学教授のTさんが「アクティブラーニングとは学力を伸ばすための手段にすぎない」と言った話をしました。じゃあ手段というならその先の目指す目的は何なのでしょう。

 

植松勉さんという方の話がとても面白く、的を射ていると思いましたので、まずその話を紹介したいと思います。

 

「夢は医者になること」と言った生徒がいました。そこに「プランBはあるか」と植松さんは訊くんだそうです。生徒は戸惑います。

 

「お医者さん以外にお医者さんですか?」

「ないでしょ、ならそれは手段なんだ。じゃあなぜ君はお医者さんになりたいのか考えてごらん」

「人の命を守りたい」

「そうか。だったら安全な機械をつくるという方法もあるよね。いろんなところに置かれたAEDも人の命を救うかもしれないね。お医者さんが使っている先端医療機器の研究をする人たちも存在するね。だったら、いきなり夢が増えた。だから具体的であって、プランBが思いつかない夢はきっと手段だから、その向こうを考えるんだ」

 

なるほどなぁと思いました。「人の命を守りたい」という夢に対して、「医者になる」「薬を開発する」などは全て手段です(スライド23)。

 

スライド24
スライド24

ではこれを「学び」に置き換えて考えてみます。

 

アクティブラーニングを「子どもたちが主体的に学びに向かう姿であり、アクティブラーナーを生み出す組織をつくること」と定義すると、これは何らかの手段ではなく、まさに「夢」じゃないかと私は思うんです。

 

だとすれば、「夢」に対してプランBはいっぱいあるんですね。「発信する場を設ける」「グループでの学びあいを配置する」などさまざまなプランが存在します(スライド24)。ところが、Tさんのように、アクティブラーニングを夢ではなく手段だと捉えてしまっている人は、「グループワークをする」とか「PBLを行う」といった、夢を実現するための手段のところだけに目が向いてしまっているんです。

 

スライド25
スライド25

もう一つスライドを見てください。

 

例えば、巷でよく見られるこんな授業、「テスト、再テスト、再々テストを繰り返す」「予備校の名物講師よろしく語り倒す」「習熟度別などによって効率化を図る」「ひたすら課題で追い込む」等々。

 

これこそ手段ですよね。この授業自体を夢とする人はさすがにいませんよね。こんなことをやりたくて教師になったという人はいないでしょう。

 

じゃあ、このような授業は何を目指しているのかというと、それはどう見ても「主体的で対話的な深い学び」の場をつくるということではないですね。ちょっと言いすぎかもしれませんが、「他校や前学年の模試の偏差値に勝つ」「大学合格実績を上げる」「教科書の内容を理解してテストでいい点数を取らせる」といったことが夢・目標のように思えます。

 

そんな教師に、「アクティブラーニング型授業」をしなさいと言われたって困るのでしょう。「そんなのでは学力がつかない」「授業が遅れる」といった文句が吹き出しちゃうに決まっています。そりゃゴールが違うからそう思うのも無理もないわけです。

 

アクティブラーニングは、「主体的で対話的な深い学び」を実現していく夢の場であると捉えていくことが大切なのだと私は考えたいと思います。

 

学校改革を実現するために

🔳 花高活性化プロジェクトの紹介

 

最後の話題、「花高活性化プロジェクト」についてですが、時間がなくなったので、スライドをざっと眺める形で簡単にまとめさせていただこうと思います。

 

昨年度の9月の段階で、不登校生徒の顕在化、欠点取得者や保健室利用者の増加などが見られ、それをきっかけに、「未来を生きる生徒のために、花高の強みを活かしつつ、現在の課題を乗り越えていくような学校改革を行おう」という提起を私が行い、花高活性化プロジェクトを立ち上げました。それ以降、職員会議はすべてアイランド型で行い、会議後に、毎回テーマを設定して課題解決に向けてのワークショップを実施しています。花巻北高校では1コマ60分の授業を行っていて、職員会議のある日は10分短縮授業になるため、ワークショップを行う時間が捻出できるんですね。

 

私のイメージする「花高活性化プロジェクト」の全体像は、「カリキュラムマネジメント」「職員の授業改善等の研修」「発信と連携」「生徒の主体的活動の支援」という4本の柱でデザインされています。特に、それを推進する心臓部分として、毎月職員会議で行うワークショップを位置づけています。その理念と目的及びその方向性として次の4点を掲げました。

 

本校の強みと課題、目指す生徒像を共有し、学校経営に反映させることをゴールとする。

生徒に時間を返し、主体性を育てるという立場にポジショニングする。

PTA・同窓会など学校関係者を「共育」を推進するパートナーとして連携を深め、地域に開かれた学校経営に踏み出す。

前例踏襲、例年通りという学校文化に縛られず、話し合いのプロセスを大切にし、トライ&エラーを行い価値を創造する。

グループ内対話、グループ間討議を促進し、職員相互の融和を図る。また、学校課題を「自分事」の問いに還元し、他者と共同する中で、教師集団のマインドセットを整える。 

 

これらは、職員が対話を行うためのグランドルールといってもいいかと思います。更に、話し合いの中で出てきたことを共有するために以下のような6原則を掲げました。

 

① 対立や批判を経ることで、一つの考えは強靱になり、共有されるものに変革されていく。

② 異なる価値観を受け入れることで新たなアイデアが生まれる。

③ 会議の透明化・発信により支援と理解の輪を広げる。

④ 教師が見識と哲学を持って話し合いに臨もう。

⑤ 職員間のネットワーク、同僚性が築かれ、つながりあい、重なり合う組織であることが前提。

⑥ 教師個々の自立性、創造性は損なわれないこと。

 

昨年度は次のような流れで行ってきました。

第1回 意見発散と現状の評価。本校の強みと課題を共有する。

第2回 精査・解決策を探る。二極化の問題を確認→スクラップできるものを検討→二極化に対する改善提案(二極化:強いアプローチについて行くものと、挫折するものの二極化)。

第3回 カリキュラム編成などフレームについての検討。

第4回 育てる生徒像の共有化に向けたPTA活動について検討。

第5回 生徒に時間を返し、主体性を育てるための時間の枠組みの検討。その後、1週間、新たな時程を試験的に実施。

第6回 次年度に向けての具体的方策決定。

 

今年度も、引き続き実施しています。これまでのワークショップのテーマは、応援歌練習について考える、不登校について考える、観点別評価とは、クレーム対応について、ポートフォリオ評価について、という具合に多岐にわたっています。また、今年度の特徴として、進路検討会やPTA総会も花高活性化プロジェクトの一環として位置づけてワークショップ型の取組を実施してきました。

 

まだまだ道半ばであり、紆余曲折を繰り返しているところですが、この2年間の中で、変化してきたことをまとめると、次のようになります。

 

 生徒の変容

・海外に目を向ける生徒の増加

・積極的な対外活動の参加

・多様なアイデアとともに地域参画する生徒の増加

 教師集団の変容

・教師集団が互いの隙間を埋める活動を行いだす

・職員室内での対話が増えてきた

 学校関係者からの評価

・楽しそうに授業を行っている教師が多い

・生徒の顔色が明るくなった

 地域や保護者の変容

・生徒の自主的活動を支援する姿勢が顕著になった

・保護者と学校のパートナーシップが強まった

 

以上、非常に駆け足で話をしてしまいましたが、最後に、この問いをリフレクションとして皆さんに出して、私の話を終わりにさせていただきます。今日は長い時間どうもありがとうございました。

 


リフレクション